差異を単色で塗りつぶすこと、そして差異を復元すること

2022/04/23の日記に書いたことなのだが、これは大事だなあという実感が日に日に増してくるので、別の記事としてここに引用しておく。日記自体は適当に書いているので、気が向いたら後で書き足すかもしれない。

eudaimon-richo.hatenablog.jp

 

差異を単色で塗りつぶすこと、そして差異を復元すること

「差異を単色で塗りつぶすこと、そして差異を復元すること」(中略)は、私が卒論を執筆する過程で考えていたテーマでもあり、今日の演習ではっきりとその重要性が理解できたテーマである。

哲学者の中には、日常的に区別がなされている事柄に対して、それを一つの色で塗りつぶす、そうしたラディカルな一手を指す者がいる。大哲学者と考えられる者の中にも、こうした単色での塗りつぶしに、その思想の核心がある者もいる。例えば、何が存在するのかといった問いに対して、心的なものと物的なものを区別して両者が存在するとする論者がいる一方で、この手の哲学者は、心的なもの、あるいは物的なもの、はたまた中立的なものだけが存在すると考える。また、性質については、内在的な性質と構造的性質の区別を温存する論者がいる一方で、これもまた、原理的にはどちらか一方のみが存在する一元論を考えることができる。

これは憶測ではあるが、一般に、こうした本来は差異があるところを単色で塗りつぶすことは、全然可能であるし、哲学史上普通になされてきたことだろう。哲学の由緒ある悪癖と言っていいかもしれない。そして、その塗りつぶしは、整合性の追求という旗印のもとでなされる(潔癖症の症状の一つでもあるのだが)。しかし、その塗りつぶしは、端的に私たちが日常生活ではおおよそ認めている区別をなきものにしてしまうという点で、瑕疵がないとは言えないだろう。

そこで、この塗りつぶしを、哲学者が弄する詭弁でも戯れでもなく、有意義な洞察とするためには、単色での塗りつぶしの後に、元あったはずの区別をこれまでよりも明確化された形で復元・再構成することが必要だ。例えば、バークリが物的なものの存在を認めず、観念論的一元論を提示するとき、あらゆるものが観念であるとして、どうして現実の知覚と夢(あるいは記憶、想像)の区別が日常生活において生じているのかを説明しなければならなかったように、全てを塗りつぶした後で日常に帰ってくる必要があるのだ。そして、日常に帰還する際、すなわち通常認められている区別を再構成する際には、塗りつぶしたことによって、より明瞭に線引きをすることができなければ、その塗りつぶしは単なるマッチポンプとして批判されるべきだろう。

私の議論に引き付けて言えば、あらゆるものが本物である、偽物もまた本物である、と主張するとき、私もこの由緒ある悪癖を引き継ぎ、本物という一つの色で塗りつぶしを行っている。重要なのは、本物で塗りつぶした後にそこで止まらず、では私たちの現実世界にある一部の特権的な本物とそれに対比される偽物という区別はいったい何なのか、この問いに答えることだ。一般的な形で言い直せば、非現実的な単色の世界は、私たちが普段生きているカラフルな世界とどこか違うのか、前者の世界からいかにして後者の世界を構成するのか——こうした問いに答えることが重要だ。

世界を単色で塗りつぶすのは、容易い。一色の絵の具で塗りつぶしがちな哲学者の腕の見せ所は、単に世界をモノトーンにすることではなく、モノトーンとフルカラーの世界をどのように媒介するかだ。