2022/01

2022/01/21(Fri.)

昨日から相変わらず頭がざわざわして、やりたいことにも手がつかずにいる。とはいえ、観たい映画のうちサブスクではなく映画館で上映されているものは明確な期限があるので、それから片付けていくのがよい。

てなわけで、出町座で「永遠に君を愛す + 天国はまだ遠い【濱口竜介監督特集上映:言葉と乗り物】」を観てきた。後者はコロナ禍が始まったばかりくらいの頃にネットで見た覚えがある。初めて観た「永遠に君を愛す」にはスリリングかつコミカルな要素が含まれていて楽しめる作品であったが、そこまで好きではなかった。言葉のやりとりはやはり面白いのだが、最近の作品と比べると——登場人物が多いせいもあってか——映像がごちゃごちゃしているような印象を受ける。「天国はまだ遠い」の方が脚本としても映像としても面白いし、あっと思わせる仕組みもあって満足度が高い。

 

2022/01/20(Thu.)

今日は卒論の締切日で、ギリギリまで頑張っていた同期も卒論を無事出し終えたようで、皆ほっとしていた。よかったよかった。久しぶりに会えた同期もいて、昨日今日とかなり多くの人と喋った。それ自体は楽しかったのだが、疲れもした。まだまだエネルギーは枯渇気味である。

読みたい本や観たい映画がだいぶ溜まっているのだが、全然手につかない。卒論を出した後もなおバックグラウンドで頭が卒論を処理しているような感じだ。頭がざわざわして落ち着かない。

 

2022/01/19(Wed.)

序や結を急いで書き上げて、全体の誤字脱字のチェックをすることもなく、えいやっと卒論を出してしまった。途中からあまりにも苦しくなってきて、さっさと出して楽になりたいと思ったがためである。全体の出来についてはあまり納得していないのだが、ところどころで重要な議論ができたと思うし、自分で「素手で」考えた結果として、まだ掘り甲斐のある問題群を新しく見つけられたとも思う。途中から調子を完全に崩して本を読めなくなったのだが、自分の卒論に何か独創性があるのならば、それはこの不調の副産物かもしれない。

全部書いてみた後で気づいたことだが、三つか四つくらいのテーマに分けることもできそうな内容が一つの論文にごちゃっとまとめられているような印象を受ける。もちろんそれらのテーマは互いに関連しているので結局はつながるのだが、それを綺麗に切り分けたら分量としてもちょうどいい明快な論文ができる気がする。まあそれは修士の課題としましょう。

文字数は、要旨とかも含めて大体52000字くらい。自分の文章はしばしばクリアに書けてると言われるのだが、その理由の一つは多くの文字を費やしているからである。明快さを維持しつつ文字数を削れるようになりたい。これも修士の課題。

卒論を出した後に同期と会ったのだが、他の同期の卒論を少し読んでみると、やっぱり哲学って変なことをしているなと思った。生物学で卒論を書いた同期に、入不二基義さんによる〈現実性は横溢する〉ことの図式化を批判する部分を読ませたら——なぜそこを読ませたかと言えば、そこだけ読んでも理解しやすい箇所だったからだ——、ふつうに読んで理解して納得していた。ちょっと嬉しい。

 

2022/01/18(Tue.)

明後日の20日が締切だが、当日に何かあったら大変まずいので、実質的に明日19日が締切である。今日は最終章を書き上げた。

ここ最近は調子が悪いから全力で自分を甘やかして丸一日寝てたりとかしてたけど、それに比べて昨日今日は致死量の作業をしてるから頭が爆発しそうである。

 

2022/01/17(Mon.)

卒論提出まで実質的な作業できるのがあと17日と18日だけなのと、今日は比較的体調が良く午前中から動き出せたのもあって、ここ最近と比べると目覚ましい進捗を生み出した。エウダイモンな一日である。残してあったメモを補筆修正しながら再構成するという比較的負担の軽い作業ではあるのだが、難関スポットでかねてから懸念していた箇所を5700字ほど書いた。あまり上手に書けていないけれども、自分が「ここに問題があるぞ!」気づいたことの証として残しておくぜ、というノリで妥協している。これを読まされる他専門の先生はかわいそうだ。同情します。あと数段落書けばここは乗り切れる。

卒論が完成に近づけば近づくほど、締切が迫って緊張感が高まってくる一方で、卒論に対する満足度も「前よりかは」上がってきている。すると気分もいくらかマシになるので、音楽を聴くのが以前と同じくらい楽しめるようにもなってきた。最近家にいる間はずっとこれを聴いている。色気がすごい。石川紅奈さんの演奏、サブスクでも聴けるようになってほしい。

youtu.be

12月末や先週よりかは元気になってきたので喜ばしいけれど、注意したいのが、元気になったが故に卒論の中身をもっと良くしようとして、形としての完成の前に中身としての完成を目指してしまうことだ。まず形として完成させることが特にこの時期では最優先事項だとは頭ではわかっているが、こだわる自分がどうしても出てきてしまう。これは卒論だけでなく自分の生涯全体にわたる問題でもある。話が大きくなってきたので戻そう。先生曰く、もう申し分ないからあとは書き上げて無事提出してね、とのことだった。さっさと完成させたい。

 

2022/01/16(Sun.)

調子が上がらなかったが、何とかゼミ発表をした。ゼミといってもラフな進捗報告会のような場で、発表する義務も特にないのだが、やはりどんどん発表していった方がタメになる指摘をもらえるので良い。

ゼミの前にNotionで書いていた分をWordに移動させるシンプルな作業をした。これは結構めんどくさい。Notionでは傍点がつかないし、Notionの記法がWordに反映されたりしてしまう。めんどくさい。そうはいえWordに直接書くのはどうにも惨めな気分になってしまうので、Notionで書いていくのだが。Notionには普段考えていることのメモが残されていて、中には全然ちゃんとした文章になっておらず、後から読み返すと意味不明なものもあるのだが、そうしたごちゃごちゃした作業場の中で書き始めるのが心理的な抵抗が減って良い。(Notionで文章を書くときは、例えば机の上に乱雑に置かれたものを傍に追いやってかろうじてできたスペースで作業をするように、メモを改行して下に追いやってそれを横目で見ながら書いたりする。)

そうしてWordに移したところ、字数が35000字を突破していた。修論かよという感じであるが、分量だけで云々言っても仕方がない。肝心なのは中身だよ中身。

あ、そうそう、ちなみに私の名前は「じんりょう」ではない。いやまあ「じんりょう」としか読みようがないし、初対面の人に正しく名前を読んでもらえたことは一度たりともないし、そう呼ばれることに何の嫌さもないけれども、一応戸籍上は違います。高校のときから〈お前名前読めないから「じんりょう」でいいよな?〉という謎のノリで呼ばれ始めて、最初は違和感しかなかったが、いまやもう慣れてしまって自分の認識としてもこびりついている。

さらにちなんでおくと、高校の同級生の中では「ダビデ」というあだ名でも通用する。このあだ名について説明しようとすると長い話になるし、仄暗い思い出が蘇らなくもないので、ここではやめておこう。「ダビデ」と呼ばれるだけなら、それをを想起することはないので大丈夫だけれど。とはいえ、道を歩いているときとかに急に「ダビデ」と呼ばれたら高校同期がいるのかな?とびっくりするし、高校時代全体が一気に去来してかなりくすぐったいと思う。

閑話休題。高校と大学で僕を知っている人の中には、僕の本名を知っている人の方がおそらくマイノリティだろう。大学での新入生合宿のしおりでも、名前の読み仮名は「じんりょう」になっていた。

 

2022/01/14(Fri.)

昨日今日と不調が続いて何もする気が起きなかったのだが、卒論提出前最後の面談をしたり、研究室に来てた同期とおしゃべりしたりしたら、少しずつ気分が大丈夫になってきた。一時は提出が危ぶまれる感じにもなっていたが——今でももうちょっと頑張らないと完成しないのだが——、何とかなりそうで少しほっとしている。いまいち納得のいかない部分や冗長な部分があるのだが、それを刈り込んだりする気力はもうないので、最後までとりあえず書き殴って形として完成させて早く解放されたい。ところどころ重要なことが書けていると思う。

卒論は身内では読めるようにしておくけれども、今後書きたい論文の材料にするので公開はしないつもり。

新しい自転車は小径なので前よりも漕がないといけないし、スピードもそれほど出るわけではないが、小回りが効くしのんびり楽に乗れていい気分である。鍵のかけ方が変わったのでそれが少し煩わしい。

最近Twitterで主婦が大学院に行くことや「業績で殴る」のが云々とかで騒がしいが、バズった時の負の雰囲気が凝縮された感じは何とも……。とりあえず苦手である。自分は、自分が重要だと思う事柄について、自分が重要だと思う文献を率直に参照しながら、論文なり文章なりが書けたらそれでいい。

 

2022/01/13(Thu.)

頭痛がひどい。以上。

 

2022/01/11(Tue.)

一日空いて更新。前にも書いたが、日記はその日の翌日に書いているので、その日の翌日の調子が悪いと、その日の分の日記が更新されない。

今日(1/11)は低気圧のせいもあって全然起き上がることができなかった。午前中から雨が降りしきり、午後からも曇り続きであったが、僕の頭の中も空模様と同じくモヤがかかって情報が流れていかない。調子が悪いときは、頭の中を流れる情報が堰き止められて、鉛を入れられたような重さを感じる。今日は結局、簡単なメールの送信をしただけである。卒論提出日までは曇りか晴れなのでこういうことがないと信じたい。本格的に筋トレをするなどしたら低気圧でぺちゃんこになることは減るのだろうか。

あと、1/10に自転車を納車した。大学に行くのが少し楽しみになった。

出町座で濱口竜介監督作品特集が組まれている。卒論を適度に進めつつ時間を見つけて観に行きたい。『ドライブ・マイ・カー』が海外の映画賞なども続々と獲得し、再び注目が集まっている。この映画についても色々考えていることがあるので、卒論が終わったらそれを書いてもいいかもしれない(どうしようもない文章が生まれてしまったら、この日記で供養する)。

demachiza.com

 

2022/01/09(Sun.)

今朝は気分の億劫さ、怠さがひどかったが、モーニングがある時間には喫茶店に着いた(今日はスタバじゃないよ)。美味しいモーニングを食べても昼を過ぎても調子が上がってこなかったが、昼過ぎからゼミに出て無理くり発表していたら辛い寄りの大丈夫になってきた。人と話しているうちに平気になってくる今日みたいなパターンと、逆にぐったり疲れてしまうパターンがある。

最近は、気分が落ち込んでひたすら胸が苦しいというような症状は出ない一方で、頭がぼーっとしたり、何も手をつけられないくらいに面倒くさい。とりあえず図書館とかスタバに行って手を動かしているうちに少しずつ作業できるときもあるが、今日は場所の移動もスモールステップさえもやる気が起こらない日だった。何もできなかった日と呼んでも間違いではないのだが、十分に休んだ日という考え方をしたい。

自転車を買ったり、美味しい中華料理を食べたりしたことはたいへんよかった。

 

2022/01/08(Sat.)

画面に手書きした文字を自動認識する機器を使ってパスワードを入力しようとしたのだが、9と書いているのに7と認識される。十数通りの9を書いてもずっと、7、7、7。9、9、9。7、7、7。その後も永遠に9を書き続けていた。

そこで目が覚めた。7と書いていたらどうなっていたのかと思ったが、もはや夢から覚めたのであの機械で試すことはできないし、そもそもふつうパスワードをそういう風に入力することはないのだから、どうしようもない。まあ、どうだっていいけど。睡眠薬を使って眠るようになってから入眠時間や睡眠時間が変わって、時々夢を見るようになった。変な夢を見るだけならまだ害はないのだが、夢の中で哲学の議論をするときもあって、起きている間に「あれ、あの議論は夢の中で見たやつだっけ?メモ残してないっけ?」と混乱するのでやめてほしい。

寝床からは青空の三角形が見えていたのだが、何となく力が入らない。近くの喫茶店(相変わらず、どこに行っても同じスタバである)まで移動して作業し始めたのだが、座席の位置が悪かったのか、肌寒くてなかなか集中できなかった。ちょっとでも冷えるところにいると立ちどころに体の末端という末端が冷え切って、その後もなかなか温まらないし、そのうち調子が悪くなってくる。この時期だと特に、自転車に乗ってて耳が冷えると耳の奥(頭)が痛くなってきて耐えられないし、全体的に寒さに弱い。

スタバから撤退してきて家で作業しようと思っても、なかなか調子が上がってこず、体の凝りや怠さは増す一方だったので、今日は諦めた。

 

2022/01/07(Fri.)

朝の気分はそこまでだったが、日中作業を進めている間はだいぶマシだった。その調子で授業に出るなどしていたらエネルギーを使い果たしてしまった。今日は他学部やうちの修士課程の論文提出日だったのだが、研究室にいたら提出間際のゴタゴタを直接拝むことができた。学位論文提出直前のハプニングは聞いている限りでは笑い話であるが、目の前で卒業を懸けて奔走している人たちを見るのは、やはり滑稽ではありながらもゾッとするところがある。

自分はそういった形式的なところは神経質になりすぎるくらいで、間違いなく行うのが得意だったのだが、それは「だった」であって、頭がぼんやりしている今では何か抜け漏れがありそうで怖くなってくる。その一方で、締切まであとどれくらいであとどの作業をやって……みたいなことをあまり考えられないので、ちゃんと形になった恐怖感があまりない。つまるところ、現実感がないのである。

かつて締切のジレンマについてはツイートしたことがあるのだが、今では違う感想をもっている。

ジレンマの前の方が今では成り立たなくなっているからだ。最近は、締切直前の追い込みができない。自分に鞭打ってバリバリやるやり方が封じられている。体が言うことを聞かない。というか、体が言うことをちゃんと聞いてやらなかったからこんな風になってしまったのだと思う。

 

 2022/01/06(Thu.)

久しぶりの早朝覚醒。薬は十分に飲んだはずだが。昨日と同じくらいの調子。今週に入ってから、起床後しばらく布団の中でくたばっている時間が長くなっている。それと関連しているのかは知らないが、今週は曇り続きで、時々小雨もちらつく。朝起きたとき、寝床の窓から三角形の空が見えるのだが、これが白いだけで気分は2割増で悪くなる。青一色の三角形が見たいよー。

卒論の提出締切まで2週間となったが、まあ何とか最低限許せるレベルで提出できそうだ。無理せずにとりあえず完成させてしまって、早くゆっくりと休みたい。

 

2022/01/05(Wed.)

今日は割と辛めの一日であった。午前中はほとんど動けず、夕方くらいから少しずつ調子が出てくる日。午後から少し動いただけなのにヘトヘトになってしまう。人体の不思議。

以前は12月中には卒論を終わらせたい(終わらせる予定)と考えていたのに、今頃になってようやく卒論の出口が見えてきた。これはどういうことかと言うと、12月中は不調が続いてなかなか卒論を進めることができなかった一方で、より大きな要因としては、年末年始あたりから頭が冴えてきた分「これで終わり」のハードルが上げられてしまったからだと思う。体調が悪いときにこれくらいでいいやと思っていたラインが、体調が少し戻ったときにはあまりに低く感じられてしまい、結果として完成させられない——おそらくこういう次第である。

卒論はまず第一に形として完成していることが大事なのだが(出せなきゃ意味ないので)、中身としての完成を優先させてしまっている、とも言い換えられる。形としての完成は心理的な負担を軽減してくれるし、中身としての完成を目指す際に形としての完成を経由するのは有効な手段であるが、頭ではわかっていても中々実現できない。これは自らの完璧主義にもよるのだろう。

調子が悪いときにできる(すべき)ことの一つに、目の前のことに意識を向けるということがある。目の前のこととは、食事だったり運動しているときの体の動きだったり、呼吸だったりする。調子の悪いときには、いろいろなことを同時に処理しようとして頭がパンクしたりするのだが、目の前のことに集中することで、こうした頭の嵐から離れられる、というわけである(もちろん、あまりにも調子が悪いときはこれさえも封じられる)。

調子が悪いときに論文を書くのが難しいのは、少なくとも今の自分にとって、論文を書くことは複数のことを同時に処理しようとする作業だからだと思う。ちゃんとした文章を書くときには、「全体から部分への制限」と「部分から全体への制限」の両方と交渉する必要がある。こう書くと難しく感じるが、言わんとしていることは至ってシンプルで、アウトラインや序や結は各章に書くべきことに影響を与える一方で、各章に書いてあることは全体像(そして、それをコンパクトにしたものとしての序や結)に影響を与える、というだけのことだ。

私が日記をたくさん書くことを難しく感じないのも、この事情が関わっている。

 

2022/01/04(Tue.)

ぎりぎり午前中のうちに大学に到着。卒論をちょこちょこ進めて偉かったのだが、虫食い部分を埋めるような作業ばかりだったため、進捗を測れていない。

自分にとって研究の楽しさには少なくとも2種類ある。もちろん研究の楽しさはもっと沢山あるだろうし、人によっても異なるだろう。しかし、とりあえずここで取り上げたいのは、自分にとっての、2つの、楽しさ。まず1つはいわば発見の楽しさであって、もう1つはいわば構築の楽しさ。前者は一瞬の閃きのようなものから、議論を重ねていった結果として得られる洞察まで、さまざまある。後者では主に、人に見せたりできるレベルの文章を綴ることの楽しさを想定している。整理された文章として自分の考えをまとめることができるというのは、その内容に拘らず楽しいものである。

もちろん、往々にして両者の楽しみは両立するどころか互恵的だろう。一瞬のうちに閃いたことでも、構造化された息の長い文章で表現して他人に伝えたりすることはできるし、文章を書いているうちに見えてくる洞察もある。ただし、両者は常に互恵的であるわけではない。素晴らしい贈り物のように思われた着想が、文章に起こしているうちに萎んでいくこともあるし、文章を構築することによって洞察が台無しになってしまうこともある(洞察を殺してしまうかどうかは、広い意味でのレトリックを操る能力にもよりけりだろう)。

卒論もいよいよ提出日が近づいてきたのだが、構築の過程で洞察により明確な形が与えられて、それがさらに構築に影響を与えるという循環が起きつつある。だから少し楽しさも感じられるようになってきたが、とはいえエネルギーをかなり消費するので流石に一日中はできない。卒論を仕上げる段となると構築の楽しさに目を取られがちで、発見し損なってしまっている(例えば、トリヴィアルな発見をさも優れた発見かのように錯覚してしまう、あるいは反対に、優れた発見をトリヴィアルな発見かのように錯覚してしまう)かもしれなくて、それが怖いところではある。これは、周りの人に当の文章を読んでもらわないと判断できないな。

 

2022/01/03(Mon.)

京都に帰ってきた。京都は自転車でいろんなところに行けるので、自分がおっきくなった気がする。

帰ってくるときにアウトレットに寄って、欲しくて探していた紫のニットと、欲しかったが探してはいなかったロンTを買った。嬉しい。ものを買って嬉しいと感じることも嬉しい。

帰ってくることにエネルギーを使ったし、気分も億劫なので、今日も卒論はおやすみ。気分が億劫なのはまだマシで、これがもっと悪いと時間を潰すことさえも億劫に感じてしまう。そして、かなり苦しくなる。この苦しみは生々しいもので、例えば、泣く直前の胸の詰まった感じが続く(そしてそれが永遠に続くような心地がしてしまう)と言えば大体伝わるだろうか。

 

2022/01/02(Sun.)

今日は一日中横になっていた。気分の内訳は、億劫が9割、空腹が残り1割、といった具合である。昨日は卒論を2000字くらい書いたのだが、今日は何もしなかった。昨日の不調の予測が当たったのかしら。音楽を聴いたりして過ごせるので、体調がめちゃくちゃというわけではない。何かしらで時間を潰すことができるというのは、最悪の状態ではないというサインだからだ。時間を潰すことでさえ集中をどこかしらに留めておくことが必要で、本当にひどいときは頭の中に嵐が発生して集中が吹き飛ばされる。

 

2022/01/01(Sat.)

新年早々不調の予兆が感じられて不愉快だったが、とりあえず栄のスタバまで行って作業した。スタバに到着したのは昼過ぎでも、流石に元日ということもあり人が少なく落ち着いていた。13:00なのに10:00みたいな雰囲気。

しかし、確保した席の隣が梅雨時くらいベタベタしたカップルだったのが心残り。もちろんカップルには非はないので黙々と執筆するのみである。自習している近くにいちゃつくカップルがいるというのは、なんか自分にとってはあるあるな気がする。こういう場面に遭遇すると、かつて期末の混み合う図書館の自習スペースに行ったら、前の机に座っていたカップルが自習中にチューしだしたことを思い出す。(正確には、チュー中に自習しだした、と言うべきレベルだったのだが、そんなのどうでもいいか。)

家族は初詣に行ったのだが、自分は去年か一昨年くらいから初詣という行為がよくわからなくなったので行かなくなってしまった。今年も行かない予定である。明確な意志をもって俺は行かないぞ!というのではなく、単にそれをする理由(慣習によって促される以外の理由)がよくわからないので行かない、という。時々、日常に変な合理性を持ち込んで行為をやめたりすることがあって、初詣や飲酒はその例である。お酒については、飲まなくなってからちょうど一年が経つ。禁酒くらいならまだ理解できても、初詣行かないとかは理解を得にくいだろうな。ともすると、「いただきます」や「ごちそうさま」とかをまったく言わなくなり始めそうである。(さすがに人と一緒に食べている時は言うようにしているが、一人だと言ったり言わなかったりだ。)こういうことがあまりにも続くと、生活が破壊されていきそうな気もして自分でも怖い。

2021/12

2021/12/31(Fri.)

今日も栄のスタバに来た。作業が進んで気分も楽になる、あるいは気分が楽だから作業が進む——そんな具合で卒論を2000字ほど書き進めた。家に帰ってからもうちょっと書けるかもしれない。昨日からなんだか調子がよくて嬉しい。12/09の日記にも書いたけど、元気だった頃ってこんな感じだったかなと思い出すような日だ。

15時くらいになって突然スタバが混み始めて、集中も切れたので、そそくさと帰った。スタバ作業は捗るので毎日やりたいが、毎日やると地味に出費が嵩むのが問題だ。あと、お店が混みだすと、自分ずっと居てるけどいいのかな……と不安でたまらなくなるので、なんだかんだ居心地が悪くなってしまう。実際は1、2時間くらいなのでそこまで問題ではないのだろうけど。

晦日にはテレビ何観る? というのは年末の定番の話題であるが、僕は普段はガキ使である。ただ、今年のガキ使の代打番組はお金をかけてるだけでテンポが悪く全然面白くなかったので紅白を観ることした。最初に司会の大泉洋が「今年の紅白のテーマは“COLORFUL”です!」と言ったときは流石に頭がバグってしまった。紅白はどう考えてもバイカラーだろうが。あと、大泉洋はアーティストよりも前に出てくる感じが普通に気に食わなかった。目立ちたがりな感じな印象を受けてしまう。

あと、今日は誕生日だった。誕生日とは言いつつも、そこで祝福されているのは誕生というよりもむしろ生存のことだ。そうはいえ、生存しているということは誕生したことを常に必ず伴うので(あれ、死んでいることも誕生したことを常に必ず伴うか……)、生存と誕生はセットで祝福される感覚もある。ちょっと自分でも何書いてんのかわからんくなってきた。

親切な石油王が僕の日記を見ているかもしれないから、欲しいものリストを貼っておく。

www.amazon.jp

 

2021/12/30(Thu.)

午前中から動き出して昼前に栄——栄とは名古屋から少し東に行った繁華街である——のスタバに到達することができた。そこからは場の圧力なるものに押されて卒論を進めることができた。2800字ほど。なかなかいいんじゃないか。この調子に乗って、明日も栄まで来てスタバ作業してもいいかもしれない。(ちなみに言っておくと、私の実家は田舎にあるが、その田舎にもスタバはある。ただ、地元のおしゃべりな人々の憩いの場という雰囲気で、作業しやすくないので私が好まないだけである。)

京都でも名古屋でもスタバはスタバなのがいいところだ。同じメニューに同じ味、同じ大学生らしいスタッフに同じ対応——。すべてが画一化されていて大資本の力も感じるが、社会批判に乗り出す前に、作業に乗り出すのが私である。僕はこの手の画一化されたスタバをよく利用するので、京都BALにあるような変化球系のスタバにはなかなか行かない。一度行った人ならお分かりの通り、あそこはごちゃごちゃとアートっぽい作品を置きまくっており、そのごちゃごちゃ感は楽しげでもあるのだが、作業には向かない。かつてそこで作業していたとき、目の前にある稲妻のオブジェクトが突如回転し始めた(ウィーン!)。たまげた。こりゃ作業には向かん。京都BAL店の西側の円卓には特に気をつけましょう。あ、とはいえ、どのスタバにもBGMがうるさいという難点はある。

今日は自分でもびっくりするくらい気分がよかったのだが、メイラックスを飲んでおらず眠気や怠さが控えめなおかげかもしれない。メイラックスはかつて頓服用に飲んでいて、今は常飲(調子よければスキップ可)なのだが、うまく付き合っていきたい。元気な時の目安がもう一つあった。お喋りになることだ。今日の日記は「うるさい」印象を自分でも受ける。

年の瀬年の瀬とうるさい。僕は仮に目標を立てるならば2月3月から考え始めて4月から本格的にやるたちなので、1月とかは特にどうでもいいという考えだ。とはいえ、今年面白かった映画とかは1月から数えたい。ちなみに、今年自分が観て面白かった映画は例えば以下(公開年は今年に限らない)。

NTLiveは機会があればなるべく観てきたのだが(例えば、ハムレットとかリア王とかフランケンシュタインとか)、『シラノ・ド・ベルジュラック』はぶっちぎりで面白かった。最近見た濱口竜介監督の短編集『偶然と想像』とかもよかったけど、いろいろ挙げようと思えばキリないからこの辺で。

 

2021/12/29(Wed.)

一日あいて、日記を書いている。実家は郊外にあるので車がなければどこへも行けず、この二日間は実家から一歩も出ずに過ごしていた。そのせいか、体もだるくなかなかしんどかったが、卒論のアイデアが浮かんでは消えてを繰り返していたので、少しずつ回復しつつあるのかもしれない。

卒論は加筆・修正・刈り込みを施した上でどこかに出したいのだが、そのときの落とし所も考えている。そんな未来のことを考える前に、目の前の卒論を書けと言われればそうなのだが。

実家では常にテレビがついていて(うちの家族は自分を除いてテレビっ子だ)、自分も高校生までは別に何も気にならなかったのだが、大学生になって下宿を始めてからはテレビはつけなくなった。せっかく買ってもらったにもかかわらず。テレビは音量的にもそれ以外の意味でもうるさいし、質の悪い番組は流しておいたら苦痛に感じるようになった。実家ではそこそこの音量で、しょうもない番組ばかりを流しているので、その点が割と辛い。

最近は、日本の分析美学界隈についても色々と考えるようになった。日本の分析美学をSNSなどで追っている人々には、この「界隈」という言葉に込められた微妙なニュアンスが伝わるかもしれないが、たしかに「界隈」としか言いようのない雰囲気が日本の分析美学界隈(の一部)にはあると思う。し、自分もそれに加担しつつあると思う(思い上がりに見えるかもしれないが、自分は一応とある分析美学の読書会を主催しているので、事実だろう)。それがいい意味であるか悪い意味であるかはとりあえず措いておくとして、研究のスタイルが多様であればいいなと願っている。何が言いたいのかいまいち伝わらないと思うし、自分でも書いてて迂遠だなと思ったので、もうあけすけに言ってしまうが、日本の分析美学者の書いたものを読んでワクワクした覚えはほとんどない。(ここで直ちにトマトを投げつけないでほしい。僕は分析美学の学術的価値を否定しているわけでは全くない。ただ、勉強にはなるけどワクワクしないな〜と思うだけである。)。これは僕の関心の偏りにもよるのだが、例えば山口尚さんや青山拓央さんが書いたものを読んだときに覚えるようなゾクゾク感が、日本の分析美学には感じられない。つまり、いわゆるJ哲学に相当するJ美学があってほしい、というだけのことだ。(厳密には、J美学はすでに伊藤亜紗さんがしていると言えるので、ここで言いたいのは分析J美学のこと)。

ダメ押しでもう少し書いておくが、分析哲学や分析美学のやり方として、いわゆるJ哲学のやり方が至高だとか書いているつもりはないし、実際書いていない。上の文章を読んで、ブンセキテツガク的なスタイルでもいいじゃないか、それを面白くないというのは徳がなっとらん!という人がもし仮にいるのならば、その人は研究者と研究分野を混同しているかもしれない。私が気にしているのは研究分野全体の多様性であって、特定の研究者個人が進める研究についてとやかく言うつもりはない。

 

2021/12/27(Mon.)

今日は台風一過的な体調で割と元気があったのだが、診察待ちと帰省によってそのエネルギーを使い果たしてしまった。元気な時の目安として、音楽を聴きたくなる、本を読みたくなる、物欲が出てくる。などがある。ちなみに、僕はTHEというブランドというブランドが好きで、ここのサイトを眺めるのはたいへん楽しい。

the-web.co.jp

OKAMOTO'SがYoung Japaneseという曲で「この世は巨大なsupermaket なんでもあるけどなんでもあるだけ」と歌っているが、まじでこの世には商品が多すぎる。スーパーマーケットの棚を眺めると、ただ胡麻ドレッシングが欲しいだけでも選択を迫られる。高級そうな胡麻ドレ、プライベートブランド胡麻ドレ、今日セールになっている胡麻ドレ、定評あるメーカーの胡麻ドレ……全くキリがない。こうした棚の前で訳が分からなくなり頭が停止したとき、自分はパッケージが最も優れた、つまり広い意味で美しいアイテムを選ぶようにしている。(哲学者が大好きなかのロバはここで餓死してしまうかもしれない。かわいそうに。)検討事項を一つ増やし、ただそれだけに従うということだ。どの検討事項を採用するかという高階の検討事項はどうやって決めるのかって?それは各自の実存で勝手に決めてください。

youtu.be

こうした選択疲れに対しては他の解決法もある。扱っている品物が少ない小さなスーパーに行くとか、あるいは先に挙げたTHEのような「これこそ〇〇の代表的アイテムですよ」と案内してくれるお店を利用するとかだ。ちなみに、THEは胡麻ドレを扱っていない。

診察について。症状に鑑みて薬を増量し、診察医の当直の変化や卒論提出時期に鑑みて普段の倍の期間の薬をもらったら、かなりお金がかかってしまった。クリスマスプレゼントとか誕生日プレゼントは自粛しておくべきかもしれない。

それから帰省した。名古屋駅を行き交う人々は京都駅を行き交う人々とは全然服装の雰囲気が異なる。そして実家にはやはり満足な椅子がないので満足に作業できなさそうな気配がしている。家事とかを減らせる点ではいいのだが。

 

2021/12/26(Sun.)

苦しい。予約をしてしまった散髪を済ませ、家に帰ってきたらバタンキューである。

今週の中盤くらいからよい周期に入ってくるはずなのだが、気分が優れず部屋から一歩も出られない日がときどきあった。気分がある程度よければ散歩に行ったりして気分を少し落ち着けることもできるのだが、元手となる気分がなければそれも許されない。

頭が少し冴えてきたので——とはいえ卒論を進められるほどには冴えていないので——青山拓央さんの『幸福はなぜ哲学の問題になるのか』をちらほら読んでいた。幸福になりたくて。

やはり定期的に読み返したくなるいい本で、特に第4章以降が素敵だと思う。第4章は、青山さん自身がその哲学のスタイルをどう身につけたかを開示しているとも言える。第5章「付録:小さな子どもたちに」は、文字通り「子供向け」の人生訓の章なのだが、本書の他の章での議論と直接繋がっている。だから、ここだけ独立に読めば単なる「子供向け」の人生訓に見えるとしても、本書を通読した大人にとっては安っぽい人生訓以上の響きがある。というか、第5章を実践できている大人も実はそんなに多くないのではないか。少なくとも現在とても不幸を感じている僕は、そこで描かれるあり方とは乖離していた。第6章の「共振」という話の落とし方には、青山さんの「大人な対応」がよく現れていると思う。(この「大人な対応」という表現に込められたニュアンスは、青山さんの他の著作や他のいわゆる分析哲学者の著作を読んでいる人になら、よく伝わると思う。)ところで、子供はしばしば大人な対応にズルさを感じて納得がいかないことがあるが、僕自身も青山さんの書き振りには大人すぎてちょっとズルくない?と言いたくなるようなときがある。もちろん、子供が大人の対応のズルさを身勝手に非難できるのは、大人というものが何かをわかっていないからでもあるのだが。

www.ohtabooks.com

ちなみに、サンタさんは卒論を運んできてくれなかった。どうやら自分でやるしかないようだ。

 

2021/12/23(Thu.)

最近は苦しいよ〜という内容の日記ばかりなので自分でもつまらなくなってきた。実際、うつになると日常の密度が異様に小さくなるので仕方がないだろう。昼ごろまで断続的に布団で眠り、昼過ぎに出てくるのはいつもの流れだ。卒論?進んでるわけがなかろうが。今週の後半くらいからよくなる周期に入ってくるはずなのだが、締め切りが迫っているせいもあるのかなかなかよくならない。焦りは禁物でのんびり治療していくのが一番なのだが、卒論は書かなければならないし、僕以外に卒論をかける人はいないので、どうしても焦りが出てくる。

家にいても横たわってじっとしていることしかできないし、ほんの少しだけ気が向いたので濱口竜介の短編集『偶然と想像』を観てきた。短編とは言えど比較的長めの3話からなるオムニバスで、どれも〈ありそでなさそで、でもやっぱりありそな(と思わせる)偶然事〉を扱っていた。どこにでもありそな出来事から、次第になさそな出来事が展開していくときには、恐ろしく不気味だったり笑えたりするものなのだが、そこでのなさその展開の中から再びありそが浮かび上がってくる——そしてこの再度浮かび上がってきたありそは、出発点のありそにはない深みをもっている。これは脚本や俳優らの演技が掘り下げたものだろう。この一段下のありそで語られるセリフには映画の魔法がかかっていて、独立に聞いたら安っぽさを感じさせるかもしれないが、下層のありその中では独特の説得力をもって響く。映像的にも素敵な箇所がいくつもあった(例えば第一話の最後や各話で時々挟まれる正面のカットなど)。

guzen-sozo.incline.life

映画を観ている間はまだ比較的平気だったのだが、映画館を出た後すぐ辛くなってきた。魔法が解けてしまったからだろう。こう書いてから、いや違うなと思った。魔法や夢から覚めたとき、帰るところはふつう現実だろうが、自分はもうずっと夢の中にいるみたいだ。

 

2021/12/22(Wed.)

苦しすぎて昼過ぎまで布団の中でくたばっていたのだが、意を決して動き出した。とりあえず卒論の表紙を買うことをミッションにして、大学に来たのだが、それを買った途端にエネルギーが完全に尽きてしまって、今度は図書館でくたばっていた。

その後、卒論を2段落だけ書いた。作業に没頭することでしばらく辛い気分から離れることができる(いわゆる作業療法というやつか)。卒論を無心で進めることや、ヨガをすること、この日記を書くことなどはそうした作業にあたるが、作業をすれば少し楽になる反面で、作業をするにも最低限の気分の安定が必要である。ちょうどこの地点でジレンマが生じる。

本当にダメなときは何をする気にもならないし、何もできない。最近の午前中から昼過ぎまでは常にこんな調子だ。ただ、今日みたいにそのジレンマを跳躍して作業に移れるタイミングもある。今のところ、その契機はただの僥倖であって、僕の与り知るところではない。

11月中旬の中間発表までは、まだ鞭を打って無理して進捗を生み出すことができた。今の自分からすると全く実感がないのだが、記録によれば僕は11月初めの1週間で2万字書いたことになっている。相当すごいな。誰だこいつは。

しかしそれから後は、全体的に調子が制止気味になって、活動量が大幅に落ちた。文章もまともに読めないし(過去の自分のメモを頼りにしてえっちらおっちら読むのが関の山である)、少し作業しただけでへとへとになってしまう。洗濯をしたり、お風呂に入ったり、ゴミを出したり、それだけでもうエネルギーが尽きてしまう。ひどい時はこの家事すらできない。何より研究に対する興味や関心や喜びが失われた。これが一番堪える。

一般に、十分な休息をとればこうした症状も良くなっていくのだろうが、僕は僕の生とべったりで生きているわけで、一般的に生きているわけではない。認知が歪みがちなことも相まって、この状態が以後ずっと続くのではないかと考えてしまって本当に恐ろしくなることがある。

 

2021/12/21(Tue.)

今のところ、たいてい日記は翌日の昼すぎに(起きてから大学に到着した頃に)書いている。つまり、12/20の日記は12/21の昼頃に、そして今日の日記は12/22の昼頃に書いていることになる。しかしこれはあくまで原則だ。俺の体調は原則通りにはいかないぜ?

12/21は気分が下の下の下で日記どころではなかったので、12/20の分は翌々日(12/22)に書いた。気分がひどく落ち込む日というのは、何もないのに勝手に涙が出てきて止まらなくなってしまう。いや自分で書いていて恥ずかしい話なのだが、まったくの別者になってしまったような心地さえするので、書いているその「自分」もよくわからない。以前楽しんでいた本や映画は目に入れるのも嫌だし、何をしてもつまらないし、世界の現実味が薄まる。実家で原液から作るカルピス以上に薄い。こんなに苦しい思いをしたことはない。

周期通りに行けば今週の後半あたりからよくなるはずなので、頓服を飲みつつひたすら耐えるしかないか。

 

2021/12/20(Mon.)

今日から卒論の作成様式のプリントや卒論の表紙を(物理で!)配布するとのことだったので、わざわざ参上してやってもらってきた。その後プリントをじっくり眺めたが、「簡易表紙」とやらなんやらが謎だったので、再度事務室に参上して色々尋ねた。そうして、どういうふうに体裁を整えればよいか、完全に把握した。

卒論の提出がちょうど一ヶ月後に迫ってきた。わーお。今日は気分がなかなか落ち込んでいたので卒論の肝心の中身はまったく進んでいないのだが、体裁は大事。てなわけで、今日のところはこれで勘弁してください。と神に祈って寝た。

 

2021/12/19(Sun.)

不調の波は規則正しく2週間周期でやってきて、日記も書かずヨガもせず(これでどちらの連続記録も途絶えた)ただひたすら横になっていた。そういうときだと実際よりも遥かに高く卒論のヤバさを見積もってしまうのでまずい。

不調時に飲む薬を飲んでみたのだが、そのせいかめちゃくちゃ眠くなった。薬を飲まずにひどく惨めな気分でただ横になっているか、それとも薬を飲んで惨めな気分を軽減して横になって寝ているか——今週の後半はそんな具合であった。

実家に帰省するのもいいが、車がなければどこへも行けないから閉塞感があるし、そうするととりあえず大学に行ってみて気分が良かったら作業進めてみる、みたいなムーブができなくなってしまう。あと、椅子がよくない。ゆったりとしたソファーか、申し訳程度の背もたれがある椅子しかない。

睡眠導入剤を1錠服用すると朝早くに目覚めてしまって寝足りない感じを覚え、2錠服用するとしっかり寝られることが検証された。もちろん医師の指示には従っていますよ。こういう風にコントロールできてしまうと、人体ってちょろいもんだなと思うと同時にちょろすぎて怖いなとも思う。まあ、ちょろいもんならこの不調も早くどうにかしたいのだけど。

まとめて書いてしまうが、12月17日(金)の演習が面白かった。文献がというよりも雑談が。いわば独りよがりな哲学について先生が色々と喋っていたのだが、その内容はここには書かないでおく。

 

2021/12/15(Wed.)

ガス点検の立ち合いとAmazonの荷物の受け取りをしただけでヘトヘトになった。

ガス屋さんは底抜けに明るい声で、逆に不気味なくらいだったのだが、住人の部屋に入って仕事をするような人はそのくらいホスピタリティがないといけないのかもしれない。コンロ周りやコンロそのものが綺麗なことを、京都随一のその明るい声でベタ褒めされた。綺麗に使っていただいてますね!と。当たり前だ。ここ最近はまったく使ってないのだから。

AmazonからはNothing ear(1)が届いた。決め手は見た目である。美しい佇まいに一目惚れしてしまった。実は、完全ワイヤレスイヤホンデビューである。マスクをつけるときにごちゃごちゃしないのがいいね。パッケージによると、完全ワイヤレスのことを英語ではtrue wirelessと言うらしい。「真の、本物のワイヤレス」。自分の研究的にも面白い表現である。当たり前のことだが、「不完全ワイヤレス」ないし「偽物のワイヤレス」は、再生機器との間にはワイヤがないが、左右のイヤホンの間にはワイヤがあるようなタイプのイヤホンを指している。

jp.nothing.tech

頭が常にぼんやりしていたので何もせず過ごした。気分の落ち込みはそれほどでもないが、逆に気分の盛り上がりもほとんどない。素敵なイヤホンを手に入れた割には。

 

2021/12/14(Tue.)

毎日少しずつでも日記を書いているとそれなりの分量が溜まるものだ。12月の昨日までの日記で累計約6000字を書いているらしい。卒論とかレポートも毎日少しずつ書くようにしたらもっとよいのだろう。しかし、卒論と日記とは文章の練度に差があるもの。卒論は日記と同じようにすらすら書けるというものではない。そうかといって、卒論をあまりにも拝めすぎると着手するのがどんどん億劫になる。一昨日書いたことを思い出せ。書かずに書く。だ。そして一度書かずに書いてしまったものをまた再度「上書き」すれば、負担は少ない。

日記はリニアに文字数が増えて(もし「完成」があるのならば)完成に近づいていくものだが、卒論の完成への道のりはリニアではない。論文の全部とは言わないが、少なくともその一部ははむしろ、海の底から全体像が一挙に浮かび上がってくるようなものだ。もちろん書き下ろしていく段階はリニアになるが、内容に関して決定的なのは、アウトラインの段階での全体像の浮かび上がりだろう。

最近は頭の靄が晴れる時間帯があるので、その間にも少しずつ考えているおかげか、だいたい全体像は浮かび上がってきたと思う。これを説得的な形でリニアに読まれる文章に流し込むのがまた一苦労なのだが。

今日は比較的早くから行動し、午前のうちに大学に来ることができた。こういったささやかな達成を寿いでいこう。午後からは頭がぼーっとしてきたので適当に過ごした。頭に靄がかかるとしても、気分がひどく落ち込まないだけまだマシである。

少し前に、卒論の表紙と様式についての連絡が来たのだが、どうやら20日から手渡しで配るらしい。令和ももはや4年目に突入しようとしているのに、まだこんなことをしているのか。PDFで配ってくれ。

 

2021/12/13(Mon.)

気分の落ち込みは中程度、体の凝りも中程度、頭の曇りも中程度、な一日であった。京大の保健診療所がどうなるかは最近の懸念事項の一つなのだが、ひとまず年度内は診療を続けてもらえるそうだ。その先は……医師も知らないらしい。

いずれの不調バロメータもそこそこの値を示していたため、何もしなかった。「何もできなかった」と考えると罪悪感が増長されるので、「何もしなかった」と考えるようにしている。同じ無為にも消極的無為と積極的無為がある。消極的無為は無為に追い込まれるようなもので——「何かする」をしない——、積極的無為は無為を選び取るようなもの——「何もしない」をする——だ。何言ってるかわかる? 僕もわからない。

シンプルだが質の良さを感じさせるような(洋服で例えるならばScyeのような)文章を書きたいのだが、日記ではそれとは程遠い文章を書いてしまっている。昨日の日記の「仕方なく(失礼)準備を始めた」みたいな、括弧内にツッコミを入れる表現は最悪だし、鼻につくこともあるので気をつけたい。「(おい)」とかも癪に障る。というか、リズムが良ければ逆にスパイスにもなるし、全然気にならないこともあるので、要はセンスの問題なのだろうか。(こういう留保も本当は書きたくないのだが)これは僕の個人的な趣味なので他の人がやっているのは別にどうだっていい。

いま思いついたけど、他の事物との比較なしに「やっぱシンプルが一番だよね!」ということを意味するのに「シンプルイズベスト」と言うのは、よくわからんことだ。「シンプルイズザベスト」という表現自体がシンプル至上主義の思想を台無しにしてしまってはいないか。つまり、遂行的矛盾に陥っているのではないか。本当にシンプルが一番なら「シンプルイズベスト」がシンプルでベストじゃないのか。

 

2021/12/12(Sun.)

昨日もそうだったのだが、具合が悪く昼あたりまで布団と一心同体になっていた。僕は布団を決して離さなかったし、布団も僕のことを決して離さなかった。とはいえ、約束の時——指導教員との面談と君島大空のライブ——は迫ってくるので、仕方なく(失礼)準備を始めた。

指導教員との面談はいつも通り、インスパイアされるものであった。その中で、「卒論を書こう!」と思うこと自体が負担になるから、メモを少しずつ書くようにしていつの間にか気づいたらできてる、となるといいよねという話が出た。これは『ライティングの哲学——書けない悩みのための執筆論』で千葉さんが「書かずに書く」と言っていたこと、それそのものだと思う。そう指導教員にも話した。

www.seikaisha.co.jp

そのあとは君島大空のライブ、「秋の独奏ツアー 汀の袖vol.3 遠征」に出かけた。本来京都は紫明会館での今日のライブがこのツアーの千秋楽だったそうだが、翌日に名古屋公演が急遽決まったので京都公演は前楽となった。君島さんは千秋楽のつもりでやりますと言っていたけれど。

これまで君島大空(独奏ないし合奏)のライブはオンラインで何度か視聴したことがあるだけで、君島大空本人も10月21日の泥砂に金のライブで観たことがあるだけだった。泥砂に金は僕の側のコンディションが最悪だったのもあって、あまり楽しめなかったのだけど、今日の夕方には僕のコンディションもそこそこで演奏に集中することができた。ライブとは別にそのこともよかった。ちなみに、整理番号が一桁でステージの目の前だった(そのせいか熱狂的?なファンが隣におりしかもその香水の匂いが辛かった)。

f:id:eudaimon-richo:20211213151534j:plain

近い

で、君島大空は相変わらずギターがうますぎて笑ってしまった。口と手が別々に動いているのだが、ギターには歌心があって、歌声にはギター心?があって、両者が君島大空の中の(あるいは君島大空という)一つの器官から渾然一体となって出てきているような印象さえ受ける。アレンジがかなり豊かで、即興的な部分もあるのだろうけど、リズムキープが確かなおかげでめちゃくちゃ聴きやすい。しまいには、ふとした咳払いさえリズムにピッタリ乗っていた。なんなんだいったい。

覚えている限りのセトリは以下。

01-光暈(halo)
02-向こう髪
03-傘の中の手
04-火傷に雨
05-19℃
06-星の降るひと
07-きさらぎ
08-世界はここで回るよ
09-遠視のコントラルト
10-花曇り
11-新曲?忘れた
12-銃口
13-光暈(halo)
(袖の扉が開かずそのままEc)
Ec-BABY BABY(銀杏BOYZ

 

2021/12/11(Sat.)

今日も2時間ほど卒論の作業をした。十分偉い。

今日の勤務を最後にしばらく労働をお休みすることにした。現在すでに人手不足気味であり、かつこれから繁忙期という中で申し訳ないのだが、自分が元気になることを第一にしたい。というか、元気でない状態で働くのはかなりしんどいし、結局治りが悪くなってしまうだろう。

大した出来事のない、のっぺりとした一日だった。しかし日記を書くとそうした一日にも楔が打ち込まれることになる。

 

2021/12/10(Fri.)

今日は週に一度の授業の日だったが、夕方あたりまで調子が悪く、文献を読んでも目が滑って内容が頭の中に染み込んでいかなかった。なぜなら頭にはすでに鉛が染み込んでいるからだ。文献の入ってくる余地はない。授業が終わってからは比較的楽になってきたので、一時間だけ卒論を進めた。脚注に気に入らない部分があったのでそれをちょこちょこ直しただけであるが。

たしか文学部には卒論に字数制限があるらしいが——専攻によってその制限は少しずつ異なるのかな——、総人にはない。余計なことを考える手間が省けるのでその点は良かった。しかし、両者ともに締切はある。当然のことだ。その点は良かったとも悪かったとも言い難い。ジレンマがあるからだ。

そういえば、今日でヨガを2週間毎日欠かさずやったことになる。我ながらすごいことだ。最近家に帰ってからは一切の作業をしなくなり、その分時間が余っているから続けられているのだと思う。これまでは帰宅してからやお風呂に入ってからの20-30分を運動に費やすのはどうも気が進まなかったのだが、意識的に休憩の時間を用意しておかないと僕みたいな人間はダメだろう。医者にも「ちゃんと休んでいますか? 休まないと疲労の負債がどんどん溜まっていってしまいますよ」と言われたし。

 

2021/12/09(Thu.)

今年の10月17日にこんなことを書いた。

夏の間には冬のあの感じを思い出せなくなってしまって、冬の間には夏のあの感じを思い出せなくなってしまうが、思い出す日というのがあって、今日はそれだった

この日はたしか最低気温が10度を切ったのだった。忘れていた冬の凍てつく様を想起させる日だった。それから月日がすぎ、最近はもはや夏のあの感じを思い出せなくなってきている。

今日は具合が良く、午前中の間に大学に着いた。それからも、絶望的な気分になることなく卒論を進められた。数時間だけの作業であったし、原稿の字数が増えるといった目に見える進捗はないが、それにしても「平気だったときってこんな雰囲気だったかな」と思い出せるくらいにはいい日だった。頭にかかっていた靄が薄れていたので、文献を読み直して理解することもできた。

もちろん全盛期には至っていないのだが、しかし今大事なのは、よかった頃と比較してあとどれだけの差があるかを気にするのではなく、どん底の時期からどれだけ回復しているのかを見定めることだ。

無理をしすぎてすぐエネルギーが枯渇してしまっては仕方がないので、夕方くらいで作業を切り上げてゆっくりと過ごした。

 

2021/12/08(Wed.)

今日は人に会わねばならない予定があったので昨日よりかは早く動き出すことができた。人と話している間はなんとか取り繕うことができる(というかそのときはまだ大丈夫だった)のだが、その後にどっときてしまった。気分の落ち込みがひどいときは、泣く直前の胸のつまった感じが永遠に続くような心地がするので、地獄である。

日記を始めてから、気分の落ち込みや体の不調について語る語彙が貧しいことに気がついた。かといって、語彙が豊かでもこの苦しみは伝えきることができないほどだ、とも思う。自分がこんな状態になる前にも大体どんな症状が出るのかは知ってはいたけれど、その頭での理解というか想像をぶっちぎってくるものがある。

 

2021/12/07(Tue.)

あまりにも苦しい一日だった。体が動かないことはないが、気分の落ち込みが最低レベルまできている。雨が降っていたせいかもしれない。

 

2021/12/06(Mon.)

最近は、0:00-0:30あたりに寝て、6:00頃に一度目が覚め(なんか寝足りないなー)、8:00頃に再度目が覚め(なんか辛いなー)、それから重い気分・体と共に昼頃まで布団で過ごすことが多い。午前中はなかなか気分がすぐれず、お昼を過ぎたあたりから少しずつ調子が出てくる。そんな具合である。お昼を過ぎても気分が落ち込んでいることもときどきある。

今日はお昼からの気分がいくらかマシだったので、卒論のファイルを開いて少しメモを取ってみたり、アウトラインを修正してみたりして過ごした。あまりガッと集中せず、ほんの数時間適当に作業しただけなのだが、これまでほとんど触れることさえできなかったことを考えれば、十分だと思う。頑張りすぎて明日以降のペースが崩れても困るので夜は何もせずのんびり過ごした。

 

2021/12/05(Sun.)

自転車の後輪がお逝きになったので、自転車屋さんに持っていってタイヤを交換してもらった。「いろんなところが交換時期きてますねー」と言われて、俺のことかな?と思ってしまったが、これも認知の歪みというか、悲観的な考えに浸りきってしまっていることの現れだろうか。そもそも俺の交換ってなんだ。どのパーツをどうやって交換するのか。自転車は各パーツを一気に取り替えることも、少しずつ取り替えることもできるのだが、私自身は連続的な変化の中で、つまり走りながらなんとかしていくしかない。

今日も2週間前と同じく不調であったが、そのことは昨日も書いた。2週間前からの改善も書いた。以前と異なる点をもう一つ挙げるとするならば、ヨガの習慣が途切れなかったことだろうか。2週間前の土日でおかしくなってからその翌週の木曜日まで一切の運動ができなくなってしまったのだが、今回の不調では11月26日から続いていたヨガの習慣を続けることができた——最悪の気分だったにもかかわらず。そして、ヨガをすることによって気分もいくらか落ち着いたように思われる。

 

2021/12/04(Sat.)

昨日から不調が続いている。2週間前もちょうど同じように不調だったので、隔週で週末あたりから週明けにかけて体調が悪くなるという周期になっているのかもしれない。しかし、2週間前の不調では体の重さが中心であったのに対して、今週の不調では気分の落ち込みが中心になっている。気が重いと体も重く感じるのであるが。

抑うつ状態ないしうつ病になると認知が歪むらしい。今週末の不調に際して「2週間前と同じ状態になってしまった。全然よくならない……」という考えがふとよぎったのだが、これはまさに認知の歪みかもしれない。少なくとも体は以前よりは軽いし——これは薬の副作用のせいだったかもしれず、薬の調整後は少しずつよくなっている気がする——、気分の落ち込み方との付き合い方も少し上手くなっている気がする。気分は落ち込むときは落ち込むのだが、落ち込んで何もできない状態の自分をあまり責めなくなった。全く責めないというわけではないのだが。

このように、自分のよい変化を記しておくことは非常に大切だ。悲観的な方向へと流れていきがちな認知を、自分が残した記録を頼りにしつつ修正する——少なくとも現在、この日記はこうした闘病(というと大袈裟かもしれないが)記録という目的をもっている。

 

2021/12/03(Fri.)

昨日はオフにしたので日記もオフにした。

今日は動き出せたのが昼だったせいもあるのか、あるいは卒論をやろうと気張りすぎていたせいなのか、何もする気が起こらず、それはもう惨めったらしい気分であった。12月に入ったからそろそろ卒論をやらなきゃな〜といういわゆる超自我が悪さをしている気がする。というか、卒論という文字を見るのすら嫌だ。

最近希死念慮がひどいので希死念慮についても記しておこう。以前、友人に「よくよく考えたら、死んだら何も残らないから生きている意味ってないんじゃないか」と尋ねたら、「普通そういう疑問は中学生くらいで卒業する」というような回答をもらった。それはそうだ。「よくよく考えたら」という部分がポイントで、普通の人はよくよくなど考えたりしないのだから。とはいえ、こうした人生の意味の問いに対する対処は、「解決による放棄」ではなく「放棄による解決」である。ここには欺瞞が——生きていく上では非常に有用な欺瞞なのだが——あるのではないか。私はどうしてもそう考えてしまう。

そして、この種の人生の意味の問いを放棄できないとき、すなわち欺瞞的な処理をせずにどうしても考えてしまうときには、解決が与えられない形で浮上する。だからどうしようもなく苦しいのだと思う。解決が与えられない中でなんとかやっていく方法の一つが信仰だろう。山口尚さんの『幸福と人生の意味の哲学——なぜ私たちは生きていかねばならないのか』は、この観点から書かれていると思う。非常に素敵な本なのだが、残念ながら今の私に本を読む元気はない。

www.transview.co.jp

 

2021/12/01(Wed.)

師走ざます。12月からまた卒論を頑張ろうかな〜と思っていたが、頭がぼんやりしていて入力を受けつけないので英語文献を読むのがかなりしんどい。ここ数週間はずっとこんな調子である。気分はそこまで酷くないが、思考ができない。『現代思想』の大森特集とかにあるあまり難しくなさそうな論考が関の山である。

明日はオフにすることが決定しているので、のんびり過ごそう。そうやって養った英気でもって金曜日から卒論が書ければいいな。というか来週中には第2章をなんとかしなければならない。第2章さえなんとかなれば卒論は出せると思うので。

2021/11

2021/11/30(Tue.)

労働が大変険しい一日だった。険しい。

 

2021/11/29(Mon.)

2021/11/27の宣言通り、『現代思想』を買った。今日は一日中頭がぼうっとしていたので読み進めるのが辛かったのだが、とりあえず、人環——正しくは人・環らしい——の教員陣の論考を読んだ。今号の『現代思想』は他にも人環関係者が多く(例えば、先輩の山名諒さんや、もっと先輩でありかつOBの山口尚さん)、いつもより身近に感じられる。僕の場合、話したことがある人の文章はその人の声で再生される。

まず、青山拓央さんの「日本(語)で哲学をするということ——大森荘蔵細野晴臣」について。以前、山口尚さんが「J-PHILとは何か——日本哲学の新しい潮流についての政治的-詩的論考」という論考(これも『現代思想』所収である)において、J-POPとJ-PHILの比較をされていたが、青山さんの論考もこの関心に連なるものだ。J-POPとJ-PHILの比較を、細野晴臣大森荘蔵という具体的な人物に焦点を当てて展開する——そんな論考である。山口さんの論考やnoteで見られる日本の分析哲学に対する批判は、その一見したところの党派的な印象から、「分析哲学」の護教論に勤しむ論者から過敏な敵対反応を受けているように見える(僕にはむしろこちらの方が党派的に映るが、ひとまずそれは措いておこう)。とはいえ、山口さんのJ-PHIL考は「多様性の尊重」という穏当な主張として読むことができるし、実際のところそういう主張なのだと僕は思っている。青山さんの論考はこうした穏当さに基づいたものなので、J-PHIL考に対して条件反射的な拒否反応が出てしまう人がもしいるならば、これで頭を冷やしてほしい。

青山さんが10年の歳月をかけて書いた『時間と自由意志——自由は存在するか』でのスタイルについても少し論じられていた。この本は増刷されることが決定したのだが、いつ増刷されるのだろう。その暁には読書会を開催したいと思っている。

閑話休題。『現代思想』に戻ろう。もう一つは戸田剛史さんの「大森哲学と◯◯論という問い」について。僕が読めていない可能性ももちろんあるのだが、全体の主張は理解できても、それを支える(はずの)個々の議論をよく理解することができなかった。全体の主張は、〈大森哲学(立ち現れ一元論)を単なる実在論や単なる観念論に回収することは困難だ〉ということであり、そのために、個々の節で大森やバークリについて、他の論者とも比較しながらあの手この手で雑想的に論じられている。

戸田さんの論考についてはコメントが二つ。まず一つ目に、戸田さんは大森が犬が好きなのではないかと想像しているが、この点をもう少し敷衍して欲しかった。

そしてもう一つ僕のさらに勝手な想像の話をしよう。大森先生は、犬が好きなのではないかと思ったと書いた。希望的観測だが、犬が好きで、犬と心の交流をしていたのではないか。そういう動物との心の交流と、もっと大きな世界との心の交流は相通じるものがあるように思う。(202)

戸田先生としては勝手な想像の話をしているだけなのでそんなこと求められても困るかもしれないが、一読者としては勝手な想像の話だけされても困る、というのが正直なところだ。

コメントの二つ目は、戸田先生がこの論考の執筆を引き受けた後悔に関するものだ。戸田さんの後悔は次。

書くことを引き受けた後、『物と心』の続きを読んでいてとんでもないことがわかった。最後の解説のところで、身近な同僚である青山さんが解説を書いていることを知ったのだ。身近に大森哲学の解説を書いているような人がいることを知っていたならば、僕はこの仕事を引き受けなかった。それが僕の後悔だ。あとなんだが気が重いので、青山さんの解説はまだ読んでいない。(202)

特に最後の一文は驚くべきことである。青山さんのこの解説が「立ち現われ論は観念論か」という表題を掲げ、〈いかにして立ち現われ論が観念論として誤解されるのか〉を論じていること、そして、戸田さんが〈大森哲学を◯◯論——この◯◯には「実在」や「観念」が入る——だとすっぱり分類することにはあまり意味がない〉と論じていることに鑑みれば、青山さんの解説は参照すべきだったのではないかと思われるからだ。

 

2021/11/28(Sun.)

サカナクションのオンラインライブ「SAKANAQUARIUM アダプト ONLINE」を観た。リアルタイムのライブはすでに先週開催されていて、アーカイブを滑り込みで視聴したのだった。かねてから音にきくサカナクションのライブには行ってみたかったのだが、規模のデカすぎるライブは苦手(食わず嫌い)なので二の足を踏んでいた。それに、サカナクションめちゃくちゃ好きというわけでもなかったし(好きではある)。そこで、オンラインライブなら気軽に観れるしええやんとなって観てみた(立たなくていいから腰も痛くないしね!)。

sakanaction.jp

youtu.be

で、これが非常に良かった。これまでに視聴したオンラインライブの中で一番クオリティと満足度が高い。演奏はもちろんだが、映像や演技も含めて演出の手が混んでいて感心した。アダプトタワーとかいう珍妙なセットが、演出に奥行きをもたらしていた。いつものライブ的なステージに切り替わった後でも、後ろに変てこな建造物があるだけでなんか雰囲気出るしね。個人的にはアダプトタワーの演出のストイシズム?がとても好きなので、ステージ切り替えなしで2時間アダプトタワーでも全然観れるだろうなと思う。

このライブでフルが初披露となった「月の椀」という新曲についても一言。こちらはトヨタの「YARIS CROSS」のCMに書き下ろされた曲で、「気になりだす 気になりだす」から始まるサビがなんともイヤーワーム。気になる曲だ(気になりだす!)。この曲のチャキチャキしたギターが好き(ポルカドットスティングレイみたいなチャキチャキすぎるのは苦手だが)。歌詞にもサカナクションの文学的感覚が遺憾無く発揮されている。サビの合いの手が1番は「ツキノバン」であるのに、2番(ラスサビ)は「ツキノワン」になっているところが、曲の解釈のポイントになる気がする。

youtu.be

サカナクションのメンバー5人が横一列に並んでいるときのあの無敵感は一体なんなんだろう。宇宙人の侵略くらいなら食い止められるんじゃないか。

 

2021/11/27(Sat.)

研究会に出た。いつもながら楽しい。「素手で」哲学をするということを考えた。とはいえ、これは不意に私の口をついて出た表現であって、明確に説明することは難しいのだが。というか、自作概念なので何を説明したら明確になるのかがそもそも明らかでない——手がかりになるのはおそらくシックリ感でしかないだろう。さしあたり具体的に言えば、大森荘蔵は「素手」の哲学をものした一人と言える。あと、山口尚さんの日本の分析哲学に対するコメントにも関連する。

note.com

研究会のSlackに記した「素手哲学」についての疑問を転記しておく。

素手で哲学する」とはいかなることか。一般的な定式化(ができるとしたら、それ)はどのようなものになるか。具体的には誰が素手哲学者なのか。

「実際に素手である」ことと「素手感がある」ことには差異があるのか。あるとしたらどのような差異なのか。(「実際に素手である」「素手感がある」を構成するような特徴には、それぞれどのようなものがあるか。)

今日はその大森荘蔵を特集した『現代思想』の発売日で、さっそくルネに向かったのだがお休みだったので買えなかった(棚卸し日という罠である)。この号の青山拓央さんの論考「日本(語)で哲学をするということ——大森荘蔵細野晴臣」も、素手哲学を考察する上でヒントになるだろう。月曜日に買う。

www.seidosha.co.jp

 

 

2021/11/26(Fri.)

先週末から今週の半ばまで、それはもう最悪の気分だったが比較的ましになってきた。鉛のように重かった体が、今はステンレスくらいに感じる。それでもステンレスくらいは重いということだ。この症状には波がある。下の下から下の上まで、低いところを漂う波だ。涙😢

職場の皆様にもご迷惑をおかけした(している、するだろう)が、親切にしてくださってありがたい限りです。

本日発売のとある本(『転んでもいい主義のあゆみ——日本のプラグマティズム入門』)が欲しかったから——この間は本を読むどころか見るのも嫌だったのを考えれば偉大な進歩である——ルネに行ってきた。売り場に平置きされているだろうと思って探してみたが見当たらなかったので、店員さんに尋ねてみたら裏から出してくれた——ちょうど並べようとしていたところだったのかな。すいません。で、「サイン本の方がいいですかね?」と、サイン本をもらってしまった。

filmart.co.jp

 

Eaton, Marcia Muelder. 2008. “Aesthetic Obligations.” まとめ

2021年7月1日の第9回分析美学の文献をなんでも読む会(#なん読))で扱った、次の文献のレジュメを公開します。気が向いたので。

Eaton, Marcia Muelder. 2008. “Aesthetic Obligations.” The Journal of Aesthetics and Art Criticism 66(1): 1-9.

academic.oup.com

 

レジュメはこちらのNotionのリンクからどうぞ。

pyrite-soursop-ae5.notion.site

Levinson, Jerrold. 1980. “Autographic and Allographic Art Revisited.” まとめ

第6回分析美学の読書会(現:分析美学の文献をなんでも読む会(#なん読))で扱った、次の文献のレジュメを公開します。

Levinson, Jerrold. 1980. “Autographic and Allographic Art Revisited.” Philosophical Studies 38: 367-83.

こちらのNotionのリンクからどうぞ。

www.notion.so

 

文献について

ネルソン・グッドマンが『芸術の言語』で打ち出したオートグラフィック/アログラフィックの区別を洗練させていく、というのがこの論文の主な仕事です。その過程で、芸術作品の存在論——音楽作品と文学作品は、純粋な構造ではなく指し示された構造である——や、音楽作品と文学作品の贋作、贋作の区別——指示的贋作と創作的贋作——など、興味深い論点が複数登場しています。

 

コメント

贋作論周辺の訳として気になる点が二つあるので記しておきます。

 

ネルソン・グッドマン『芸術の言語』第3章第3節の訳について

レヴィンソンの論文を読んで、グッドマンが『芸術の言語』において、オートグラフィック/アログラフィックの定義を最初に明示的に記述する箇所の邦訳で、注意すべき箇所を見つけました。原文と邦訳と載せておきます。

Let us speak of a work of art as autographic if and only if the distinction of between original and forgery of it is significant; or better, if and only if even the most exact duplication of it does not thereby count as genuine. (Goodman 1976, 113; 太字引用者)

ある芸術作品について、そのオリジナルとその贋作の区別が重要であるとき、かつそのときにかぎり、その作品をオートグラフィックautographicであると呼ぶ。より適切にいえば、ある芸術作品がオートグラフィックであるのは、その作品の最も正確な複製であっても本物だと見なされないとき、またそのときにかぎる。(邦訳134; 下線は原文の傍点)

レヴィンソンは、引用中太字で示した“it”について「その作品あるいはその(本物の)実例」と理解すべきだと指摘しています。というのも、レヴィンソン曰く、グッドマンはこの定義を、音楽や文学といった芸術と、絵画や彫像彫刻といった芸術の双方に適用可能なものとみなしているからです。芸術作品の存在論のよくある理解では、音楽や文学では、演奏や冊子は作品そのものではなく作品の事例である一方で、絵画や彫像彫刻では、ある物理的対象(事例)は作品そのものだと想定されます。これを踏まえて言えば、グッドマンの"the most exact duplication of it"という表現は、音楽や文学では演奏や冊子の複製、あるいは絵画では(しばしば作品と同一視される)キャンバスの複製ということを意味している——、これがレヴィンソンの指摘するところだと考えられます。これは全く正しい指摘です。

ごちゃごちゃと書きましたが、結局のところは、“the most exact duplication of it”という部分は——どう訳すはさておいて少なくとも意味内容としては——「その作品あるいはその(本物の)実例の、最も正確な複製」と理解すべきだ、ということです。しかし、当該箇所の邦訳は「その作品の最も正確な複製」となっているため、音楽作品や文学作品の複製を考える際に混乱が生じるかもしれません。というのも、音楽作品や文学作品それ自体の複製は、音楽作品や文学作品が抽象的な存在者である以上、不可能だからです。音楽作品や文学作品について、ここで言われているのはむしろ、音楽作品や文学作品の事例の複製のことでしょう。なんとなく読んで意味がわかったように思える箇所なのですが——事実私もそうでしたし、これによる実害はあまり大きくないのですが——、厳密に考えてみると原文においても"it"が不明瞭なので、注意されたいです。

 

‘referential forgery’と‘inventive forgery’の訳語について

もう一つのコメントは、レヴィンソンが指摘する贋作の種類の訳語についてです。一つ目の『芸術の言語』の邦訳についてのコメントと比べると、こちらの方がより重要です。

referential forgery’と‘inventive forgery’はそれぞれ、「実物参照的な贋作」「創意に富んだ贋作」と訳されることがしばしばあります。そもそも邦語で書かれた(いわゆる分析系の)贋作論は少ないのですが、例えば、清塚(2014)や西條(2021)はこの訳語を採用しています。しかし、この訳語の選択は——特に後者の「創意に富んだ贋作」は——問題含みだと思います。私は、それぞれ「指示的贋作」と「創作的贋作」と訳すようにしていますが、それはこちらの方が問題が少ないからです。

まず、‘referential forgery’について。「実物参照的な」という訳語では、参照するのは実物以外にありえないのだから「実物」は省いても構わないのではないかと思います(ここを省略するかどうかは好みや訳の方針によるかもしれません)。そこで「参照的(な)贋作」という訳語の候補も得られますが、これは少しばかり問題があります。なぜなら、‘referential forgery’以外の贋作にも、本物をある意味で参照して——例えばスタイルを模倣するなどして——制作された贋作があるからです。レヴィンソン自身は、「referential forgeryでは、贋作元となるwhich the fogery is of(したがって、緩い意味で、贋作が指示するrefer to)何らかの本物の作品が常に存在する」(Levinson 1980, 377)と述べています。このニュアンスをそのまま生かして、「指示的贋作」と訳すのがよいと私は考えています。直訳的ですが、むしろ誤解が少ないのではないでしょうか。とはいえ、「参照的贋作」と訳すのもわからないではないです。(「実物参照的な贋作」という訳語は、‘inventive forgery’について私が採用する訳語と対になっている様を損なうので、少なくとも私は使いません。)

一方で、‘inventive forgery’を「創意に富んだ贋作」と訳す気持ちは、私にはほとんどわかりません。そもそも、レヴィンソンによれば、存在しない作品や存在しない制作者のオリジナルであると偽る贋作が、 ‘inventive forgery’だと言われます(Levinson 1980,377)。ここでは、新しい思いつきや独創性などを含意する「創意」については何も述べられていません。ましてや、「創意に富ん」でいることも ‘inventive forgery’の説明には不要です。実際、ある画家の(ある作品事例ではなく)スタイルを完全に模倣して新たな作品を制作し、その画家によるものだと詐称するとき、これは‘inventive forgery’と言えるでしょうが、この贋作自体は全く創意に富んでいません。そのため、私としては「創作的贋作」と訳すようにしています。「創作」の意味合いによっては、この訳語も問題含みなものになる可能性がありますが、とはいえ、「創意」を含む訳語はそれ以上に明らかに問題含みでしょう。そもそも、創作的贋作は、指示するオリジナルが存在しないような「新しい」作品を制作するという意味で‘inventive’なのであって、新しいあるいは独創的なアイデア(「意」)をもつという意味で‘inventive’なのではありません。

 

参考文献

  • Goodman, Nelson. 1976. Languages of Art: An Approach to a Theory of Symbols. 2nd edition. Indianapolis: Hackett Publishing Company. (『芸術の言語』. 戸澤義夫・松永伸司(訳). 慶應義塾大学出版会. 2017.)
  • Levinson, Jerrold. 1980. “Autographic and Allographic Art Revisited.” Philosophical Studies 38: 367–83.
  • 清塚邦彦. 2014. 「ネルソン・グッドマンの贋作論 : 『芸術の言語』第3章の分析」. 『山形大学紀要(人文科学)』 18(1): 1-39.
  • 西條玲奈. 2021. 「N.グッドマンの贋作論と芸術家のスタイル」. ART RESEARCH ONLINE 2021年2月号. https://www.artresearchonline.com/issue-5a(参照2021年4月19日). 

【活動報告】ART RESEARCH ONLINE 2021年3月号 特集:参加型アートに寄稿しました

活動報告

「ART RESEARCH ONLINE 2021年3月号 特集:参加型アート」に「分析美学から見た参加型アートの芸術的価値と美的価値」という論考を寄稿しました。

「参加型アート」というとニコラ・ブリオーやクレア・ビショップといった論者を思い浮かべる方も多いと思いますが、本稿で扱うのはいわゆる分析美学の分野での参加型アートをめぐる議論です。以前はそれほどでしたが、最近になって分析美学でも参加型アートの芸術的価値や美的価値について論じられるようになってきました。本稿ではそれらの動向を紹介・検討しています。

www.artresearchonline.com

本稿執筆にあたって、研究室の方々、銭清弘さん、難波優輝さん、村山正碩さん、森功次さんからは有益なコメントをいただきました。ありがとうございました。

 

 

Riggle, Nick. 2020. “Transformative Expression.” まとめ

次の論文を(少々詳しめに)まとめました。

Riggle, N. (2020) “Transformative Expression” in Lambert, E. & J. Schwenkler (eds.) Becoming Someone New: Essays on Transformative Experience, Choice, and Change, OUP, pp. 162-81.

こちらのNotionのリンクからご覧ください。

www.notion.so

 

論文について

先月と今月、変容的経験*1についての論文集、Lambert, E. & J. Schwenkler (eds.) (2020) Becoming Someone Newを扱う某🧛‍♂️研究会に参加しました。 

 

私の担当した第9章「変容的表現」には、多くの論点が盛り込まれています。例えば、自己表現に関わるパラドックスの解決、変容的表現の定義、形式主義でも快楽主義でもカバーできない美の説明、などなど。ただ正直にいうと、欲張りすぎでそれぞれの議論が中途半端になっているのでは、と私自身あまり面白がれなかったので、発表資料を公開するのはやめておいたのでした。

 

ただその後別の某会で、「分析系の研究者が参加型アートにも言及している論文として珍しく、その点でまとめを公開することには意義があるのでは」と背中を押していただいたので、公開することにしました。(先に申し上げたように、論点が多いので、レジュメをざっと見てから本文に進むのもよいと思います。)

 

2021年も面白い論文があったら継続的に共有していこうと思います。それではよいお年を。

 

補足等

*1:L・A・ポールが今夜ヴァンパイアになる前に―分析的実存哲学入門―』において提唱しましたが、そもそもこの著作の原題はTransformative Experienceでした。