独奏は、バンドツアーの合間にできるのが信じられないくらいの練度の高さだった。これまで君島さんの独奏は何度か聴いてきたが、過去一番の出来だったのではないかと思う。特に「˖嵐₊˚ˑ༄」と「c r a z y」 のアレンジが素晴らしかった。前者はガットギター一本で電子音の渦を表現し、後者はオリジナルの轟音をしっとりとした弾き語りにうまくまとめていた。
京都に帰る前に丸の内をぶらぶらした。私の大好きなブランドTHEもKITTEでちゃんとチェックしてきた。冬が近づいてくるたびに、今年こそTHIS IS A SWEATER.を買おうと決心している気がする。今年も決心した。Bulyも見つけたので寄ってしまった。次の香水決定戦でAēsopのエレミアに敗れたリケン・デコス(2023/09/10(Sun.), 20(Wed.)を参照)は、やはりいい匂いだ。ムエットをいくつかもらったのだが、ご丁寧にもそれぞれ別のプラ袋に入れてくれた。匂いも混ざらないし、揮発が遅くなってだいぶ長いこと香りを確かめられる。ナイス気遣い。
These ways of philosophy seem, like friends who have quarreled, to be able neither to tolerate nor to ignore one another. I shall frequently be saying something one could not fail to know; and that will appear trivial. I shall also be suggesting that something we know is being overemphasized and something else not taken seriously enough; and that will appear dogmatic. But since I am committed to this dialogue, the time is past for worrying about appearances.
両者の哲学のやり方は、あたかも仲違いした友人のように、互いを許すことも無視することもできないように思われる。私は、人が必ずや知っているであろうことを幾度となく述べるが、それは瑣末に見えるだろう。また私は、私たちが知っていることの一部は過度に強調されており、その他の部分は十分真剣には捉えられていないことを示すが、それは独断的に見えるだろう。しかし、私はこの対話に専念(コミット)しているのだから、見てくれを気にするのはもうお終いだ。(MWM p. 173)
But if this is what their claims amount to, it hardly seems worth a philosopher's time to try to collect evidence for them.
しかし、もし彼らの主張がこうしたものに過ぎないのであれば、日常言語に関する証拠を集めようとすることには、哲学者が時間を費やす甲斐がほとんどないように思われる。(MWM p. 173)
[…] we must bear in mind the fact that these statements — statements that something is said in English — are being made by native speakers of English. Such speakers do not, in general, need evidence for what is said in the language; they are the source of such evidence. It is from them that the descriptive linguist takes the corpus of utterances on the basis of which he will construct a grammar of that language. […] in general, to tell what is and isn't English, and to tell whether what is said is properly used, the native speaker can rely on his own nose […].
これらの〔第一のタイプの〕言明——あることが日本語で言われるという言明——が日本語を母語とする話者によってなされていることを心に留めておかなければならない。そのような話者は一般に、その言語において何が言われるかについての証拠を必要としない。むしろ、母語話者こそがそのような証拠の源なのである。記述的な言語学者が言語の文法を構築する上で基礎に据える発話のコーパスを得るのは、他でもない母語話者からなのである。一般に、何が日本語であって何がそうでないかを判断するのに、言われることが適切に使用されているかどうかを判断するのに、母語話者は自らの勘(nose)を頼りにすることができるのだ。(MWM p. 174–75)