2022/05/30(Mon.)——低気圧・『シン・ウルトラマン』
具合が悪いと思ったら大体低気圧。
MOVIXに『シン・ウルトラマン』を観に行った。少し前まではMOVIX来場者のための無料駐輪場があったのだが、Dolbyシネマがある方の建物のゲーセンが潰れてBEAMSとくら寿司が入った時期くらいに、その無料駐輪場が有料駐輪場になってしまったようだ。なんとも残念。しかも、2時間まで無料で、それ以降は有料になるらしい。その辺の駐輪場の中では安い方だが、とはいえ映画観たらちょうど2時間ちょいになるから、ほぼ確実に有料で利用することになる。いじらしい料金設定。
以下、『シン・ウルトラマン』のネタバレ含むかも。
『シン・ウルトラマン』は期待が高かったがために、まあまあかな…という感想だ。ところどころで面白い映像も観れたが、会話シーンと最後のゼットンとの戦いが大分しょうもなかった。会話シーンのこれみよがしな実相寺アングルがしつこかった。ちょこちょこ面白いシーンはあるのだが、全体の話の筋が弱いのではないかと思う。
ザラブとウルトラマンが都心で戦うシーンは見応えがあった。真正性の一研究者としては、ザラブがウルトラマンに擬態している姿が偽物で、神永(ウルトラマン)の方が本物・モノホンと言われていたのが、事例として頂戴できそうだった。ザラブの擬態するウルトラマンは目がちょっとカクカクしていて、本物のウルトラマンは綺麗な楕円になっているっぽい。初見で気づいたのはここだけだが、他にも微妙な違いがあるのかもしれない。
ウルトラマンの脇のあたりにあるスーツのたるみみたいなの、あれは観ていて面白い。
2022/05/29(Sun.)——応用哲学会二日目・WOMEN: WOVEN・お仕事
応用哲学会二日目。今日は応哲のあとにお仕事があるので、セーブ気味に参加した。
昨日の書き込みに関することを、銭さんが2022/05/31の日記(タイムスリップ!)でも述べてくれている。「ジョーカーカード」という表現は銭さんのお気に入りなのかな。
今日聞きに行くやつ
— 迅亮 (@eudaimon_richo) 2022年5月29日
10:00- 長門・平松「デートアプリ文化とプラットフォーマーの倫理的責任 」
11:00- 大畑・高野「「性的倒錯」はいかにして可能か」
13:00- 大内良介「自傷の現象学」
13:35- 遠藤進平「冗談はなにをわれわれにもたらし、冗談のなにがわれわれを誘うのか」
14:10- 全部
— 迅亮 (@eudaimon_richo) 2022年5月29日
16:20- 太田雅子「行為者の無知に基づいた非道徳的行為の評価について」
展覧会行ったら作品作りたくなるし、学会行ったら論文書きたくなる(ただし効果は短時間なので急ぎ取り掛かる必要がある)
— 迅亮 (@eudaimon_richo) 2022年5月31日
ワークショップ「どうして女性が 「女性」 問題 を被るのだろうか: 哲学におけるセーフ・プレイス の形成を目指して」についていくつか。自分は同時間帯の「自由意志の概念工学」などをちょろちょろ観ていたりしていたので、あまり集中して聞いていなかったのだが、WS後に高井さんがこんなツイートをしていた。
応用哲学会の「どうして女性が 「女性」 問題を被るのだろうか:哲学におけるセーフ・プレイスの形成を目指して」参加した。いっぱい感想あるけど(登壇者の皆さま本当にお疲れ様でした)WOMEN:WOVENに対して「あれもこれもしたらどう?」って角度の”提案”が多かったの辟易した。WSタイトルそのまま。
— ゆと里@講談社メチエ『ハイデガー』出ました (@Yutorispielraum) 2022年5月29日
学会の「討議」が(女性に限らず)安全な環境ではないと思うなら、協力者を見つけるなりして自分のできることを(WOMEN:WOVENに求めず)すればいいし、研究室の女性割合を増やしたいなら(WWを応援するのもいいけど)自分ができることを自分のリソースですればいい。本当に「問題」を解決したいなら。
— ゆと里@講談社メチエ『ハイデガー』出ました (@Yutorispielraum) 2022年5月29日
高井さんの問題意識、および今回のWSのタイトルの「どうして女性が「女性」 問題を被るのだろうか」という問題意識は、私も十分認めているし、私自身具体的にどのような行動をとったらよいのか悩み中だ。
ただ、それはそれとして、今回のWSの質疑に対してこのような指摘をすることはやや不当だとも思う。
まず、今回のWSは主題として「どうして女性が「女性」 問題を被るのだろうか」を掲げているが、私が聞いていた限りの発表については、そして他の発表についても資料を見る限りでは、ほとんどWOMEN: WOVENの活動報告だったと思う。つまり、副題の「哲学におけるセーフ・プレイスの形成を目指して」に内容が集中していた、ということだ。たしかに、活動の仕方についての詳細な分析がなされており、それはW:Wに参加したことのない者にとって有益だったと思う。しかし、それをもってしても「どうして女性が「女性」 問題を被るのだろうか」についてはあまり掘り下げられていなかったのではないか。(これはぜひ述べておかなければならないが)その中でもオーガナイザーの青田さんは、立場の弱い人々がその弱い立場を是正するために動かなければならないことの不合理について、しばしば注意を促していらっしゃった。とはいえ全体的に見ると、上述の主題を伝えるには不十分だったと思う。
そして活動報告とその反省が発表のメインであるからには、質疑応答もW:Wに対して「「あれもこれもしたらどう?」って角度の”提案”」が多くなるのも無理からぬことだろう。もちろんここで、「私はこういうことをやっています(これからやります)!」といったコメントをしてもよかったのかもしれないが、それは今回のWSの発表の趣旨に応じた質疑応答としてすべきものなのか、正直私は疑問である。例えば、「そのような取り組みをしていらっしゃたら教えてください」とアナウンスするとか、当日取り組みの具合についてアンケートを取ってみたりしていれば、そのようなコメントが出る余地と意義があったかもしれないが。そのため、高井さんの問題意識は十分に尊重し同意した上で、なおこの非難は的を射ていないのではないかと思った次第である。
「女性」問題を他人事にしてしまっていないか。私もこれからまた改めて注意します。あと、WOMEN: WOVENの宣伝もしておく。
women-woven.philosophyonline.net
2022/05/29(Sat.)——応用哲学会一日目
応用哲学会一日目。朝からいろんな発表を聞きに行ったので大変だった。
日差しは強いけど風が涼しく吹いて気持ちがよく、こんな日は鴨川でピクニックしたいのだが、発表を聞くために研究室に馳せ参じた。鴨川にWi-Fiもがな
— 迅亮 (@eudaimon_richo) 2022年5月28日
5/28(Sat.)行くもの(予定)
— 迅亮 (@eudaimon_richo) 2022年5月28日
11:00- 江口聡「分析フェミニスト哲学者による ポルノグラフィー批判」
13:00- 吉川孝「誰がポルノとアートを区別したいのか」(or久木田・三木「私たちを私たちにするもの」
14:00- 銭清弘「美的に良いものはなにゆえ良いのか」
15:00- 和泉悠「どうして悪口は面白いのか」
— 迅亮 (@eudaimon_richo) 2022年5月28日
16:00- 植原・吉良・永石・吉原「「制度的人工物としての法」 を 法学/哲学両面から撃つ」
銭さんの発表、去年に続いてめちゃボリューミーなので(美学かじってる僕でさえそうなのに)他の人は発表の時間内だけで咀嚼するのは難しそうだ
— 迅亮 (@eudaimon_richo) 2022年5月28日
とはいえ、Notionページが充実しているので、発表外の時間も使えば咀嚼できる。
— 迅亮 (@eudaimon_richo) 2022年5月28日
質問がビアズリーの美的経験論を読むパートよりも、その「側」というか、それが何問題に対する回答であって、何主義になるのか、に質問が集中していた。
以下、反快楽主義(というかリグル)について考えていたことをいい感じにまとめられたので、全部載せておく。
銭さんの発表というより、反快楽主義をどう理解するかについての見解を記しておく(以前なん読でも話したこと)。
— 迅亮 (@eudaimon_richo) 2022年5月28日
例えば、リグルは、快楽の代わりに美的自由(とか共同体)というアイテムを持ち出して美的価値が価値あることを説明しようとする。そして、この自由はざっくりいえば、
自己構成的な気質やコミットメントから逸脱することだ。すると、リグルが説明できているのは美的価値はごく一部の領域に過ぎないのではないか(美的価値一般の理論としては不適切ではないか)と思えてくる。というのも、自己構成的な気質からの逸脱は、日常茶飯事の出来事ではなく、
— 迅亮 (@eudaimon_richo) 2022年5月28日
「普段の」美的価値についての説明ではないから。そうした逸脱はごく特別な機会にしか訪れず、確かにその機会には美的な価値があるとしても、美的価値一般の説明として採用することは厳しい。一方で、じゃあ普段の美的に価値あるものをすべて「逸脱的」だと考えればいい、と考えられるかもしれない。
— 迅亮 (@eudaimon_richo) 2022年5月28日
私たちの生活は逸脱に溢れているのだ、と。これは安易であり、かつ間違いでもある。それは逸脱を増やすことによって、逆に逸脱を消してしまっているに過ぎない。「逸脱」が常態化すればそれはもはや逸脱ではない。
— 迅亮 (@eudaimon_richo) 2022年5月28日
まとめると、リグルの美的価値論は(普段の生活の説明としては不適切であり)
生活の中で稀に訪れる特別な機会の美的価値を説明する理論として捉え、普段の生活の美的価値を説明する理論によって、補われるべきだ。逸脱や自由が輝くのは、踏み固められた日常に置かれるときであって、その安定した美的生活を説明するための普段使いの美的価値論を受け入れることは、
— 迅亮 (@eudaimon_richo) 2022年5月28日
リグルの美的価値論にとっても望ましいとさえ言える。そして、普段の生活の美的価値を説明するための理論については、快楽説やらネットワーク説やらで戦う余地があると思う。逆に言えば、リグルの美的価値論は包括的でないにしても、他の説では代替しにくいような一部の美的価値を押さえている。
— 迅亮 (@eudaimon_richo) 2022年5月28日
銭さんの、反快楽主義が快楽の代わりに持ちだすアイテムも結局快楽で説明できるのでは?という見解についての懸念は以下。(この種の懸念について、銭さんが2022/05/28の日記で少し言及していた。)
話を変えて。
— 迅亮 (@eudaimon_richo) 2022年5月28日
反快楽主義路線(ロペス、ナナイ、リグルやらの)が推すアイテムのよさは、いずれも快楽によって与えられるのでは?と銭さんは考えているが、(質問もした通り)僕はそれには乗れない。ただし、銭さん曰くそれは好みの問題なので、反論の対象ではない(異論があるだけ)かもしれない。
とはいえ、銭さんのnote「美的に良いものはなにゆえ良いのか」で書かれている快楽主義の擁護は十分でないと思う。厳密に言えば、たいていの場合で達成などに快楽が伴うとしても、快楽が行為の理由を与えているとは限らないから(随伴しているだけ、みたいな)。
— 迅亮 (@eudaimon_richo) 2022年5月28日
盛り沢山な一日でだいぶ疲れた。
最近睡眠で困っている。前よりか寝付きは少し良くなったのだが、睡眠時間が短くなりがちで、どうしても5-6時間そこらで目が覚めてしまう。それで十分という場合もあるかもしれないが、起きた瞬間めちゃくちゃ眠たいしスッキリもしていないので、十中八九十分ではないだろう。
2022/05/27(Fri.)——たん読・授業・学振書類・会議
『哲学探究』読書会(たん読)、授業、先輩の学振書類読み、会議、な一日だった。授業では、僕の好きな「差異を塗りつぶすこと、そして差異を再構成すること」の話になって、ついつい喋り過ぎてしまった。反省。
出町座で『たぶん悪魔が』を観たい。『シン・ウルトラマン』も観たい。後者は冒頭映像がYouTubeに期間限定で公開されていたが、それを見ることはネタバレになるのだろうか。あとあと『トップガン——マーヴェリック』も観たい。真正性研究者にとっても面白い『トップガン』のツイートをメモがわりにここに置いておく。
感動
— 『トップガン』公式 (@TopGunMovie_jp) 2022年5月9日
喜び
興奮
愛
友情
リスペクト
人生
すべてが本物だから、心が動く
“本物”の胸熱イベントムービー、遂に公開!
トム・クルーズ
『#トップガン マーヴェリック』
5.27 [FRI] 全国 ロードショー
あなたも“胸熱”な瞬間を作るひとり!Twitter投稿キャンペーン実施中→ #トップガン胸熱
元気だったときの威勢のいい自分が引き受けた仕事が、元気じゃないときの殆ど死んでいる自分に降りかかっていて、6月は大変厳しいことになりそうだ。
2022/05/26(Thu.)——低気圧・『なみのこえ』
低気圧で具合が悪い。しかし対面で開催される2限のために大学まで歩いて行った。帰る時もなんだかんだ雨が降っておらず、雨が激しく降り始めたのは日付が変わるくらいの頃だった気がする。雨に備えて傘を持ってきたのに、結局雨は降らなかった——このようなとき、私は釈然としない気分になる。というのも、雨は降らなかったこと自体は、雨に降られる心配も無くなるし、傘をさして移動する必要もないので嬉しいのだが、一方で、せっかく傘を持ってきたのにもかかわらず、それを使わないのは腹立たしいからだ。傘持ってきたんだから雨降れよ!という怒りと、とはいえ雨が降ったらそれはそれで鬱陶しかった(実際は降らなかったのでよかった)という安心に板挟みにされる。こういうわけだ。
頭が全く動かないので、図書館で酒井耕・濱口竜介の『なみのこえ 新地町』を観た。東北記録映画三部作の各部の名称がいつまで経っても覚えられない。『なみのおと』『なみのこえ』『うたうひと』。『なみのおと』『なみのこえ』『うたうひと』。『なみのおと』『なみのこえ』『うたうひと』……
2022/05/25(Wed.)——山野さんの『独学の思考法』レビュー
久しぶりの更新。元気がなかったり、読書会を始動させたりしていた。
🌱読書会のお知らせ🌱
— 迅亮 (@eudaimon_richo) 2022年5月20日
ウィトゲンシュタイン『哲学探究』の読書会をやります。京都大学内で、対面で、金曜3限(13:15-14:45)に開催します。
ご興味のある方はDMやリプ等でご連絡ください。
(京大関係者の方々は拡散してもらえると嬉しいです📢)
山野弘樹さんの『独学の思考法——地頭を鍛える「考える技術」』を読んだ。時々山野さんのTwitterを眺めるのだが、その意見には頷けないことが多い。とはいえ、Twitterと実際の人物は違うので、本を読んでみたという次第だ。(ちなみに言うと、僕も最近わかってきて反省していることでもあるのだが、実際の人物が考えていることと、その人が書いていることはまた違う場合がある。)しかし、率直にいえば大して興味深い本でもなかったし、周りの院生や大学生には薦めないと思う。ビジネスパーソンであり、かつ長めの本を読む時間を確保するのが難しい人とかには、薦めてもいいかもしれない。事実、この本の想定読者はそうした人々だろう。
『独学の思考法』を読んだ。図がやばい
— 迅亮 (@eudaimon_richo) 2022年5月19日
ただよくなかったという評価だけを表明するだけなのも説得力がないので、いくつか記しておく。
第一に——ツイートした通り——図がよくない。本書には読みやすさを向上させるためにか、多くの図が載っているのだが、ほとんどは情報量がなく、図にしたって仕方がない類のものであり、一方で、ごく一部の図は逆に情報量が多く、本文の重要なところでお茶を濁すために使われている(例えば128頁)。図の中には、図にしたことによって(「→」の記号等で)余計な含意が込められてしまっているものもあった。
この本では、抽象的な話をなるべく具体例で補って、明確にしようとする努力が見られるのだが、「物語化」や「分節化」の具体例として説得力のない図解が出てくる(もちろんそれ以外の場面でも図は出てくるが)。そのため、抽象的なレベルでの主張にはうなづけるのだが、その具体例がいまいちピンとこない——このようなケースが多かった。
第二に、具体例ないし例えがよくない。第一の点の後半で述べたこととも関連するが、具体例で出される「ビジネス」や「アート」の事例が、具体例でありながらも相当に曖昧なので、さほど効果的でない。もしかすると想定読者層であるビジネスパーソンにはよく理解できる話なのかもしれないが。とはいえ、具体例以外にも、例えがそれほど巧みではないというのも欠点として挙げうると思う。わかりにくい事柄を比喩によって巧みに伝えるということは確かに重要であると同意するが、とはいえ、「考えること」は「走ること」の比喩によって説明するほどの事柄なのかは、正直疑問である。これも、想定読者層であるビジネスパーソンにとっては助けとなるのかもしれないが。私が、本書をビジネスパーソンには薦めるが、学生には薦めないというのも、この第二の点に関わる。(でもビジネスパーソンってもっと賢くないのかな……そりゃもちろん賢い人もそうでない人もいるとは思うが。)
第三に、第二部について。第二部では、「ソクラテス式問答法」を叩き台にして、山野さんの重視する対話的思考を詳しく説明するという形になっているが、ソクラテスが過小評価されすぎではないかとも思った。ソクラテスの問答法が「産婆術」とも言われるように、他者に寄り添っていないとは言い切れないし、それこそ、山野さんのいう意味でのチャリタブルリーディングは、むしろソクラテスの常套手段でもあるように思う。もちろん、だから山野さんの対話的思考はダメだとかそういうことを言いたいのではない。(これは先の〈抽象的なレベルでの主張にはうなづけるのだが、その具体例がいまいちピンとこない〉ケースの一つだとも言える。)
前半部や、冒頭における思考することについての山野さんの見解などは、独学本としては目新しい印象はないし、哲学研究者が書いているからこそ深みが出た、とも言い難いと思う。つまり、私が独学本は哲学研究者が書くべきだと考えている、ということではなくて、山野さんは本書の内容と自身の哲学研究キャリアとの関連を強調しているけれども、実の所その関連がどれだけあるのかについて、私は懐疑的である——こういうことだ。むしろ、本書の独学本としての独自の点は、第一部の最後の相手に伝える能力(具体例で言い換えること等)の重視、そして、第二部の全体——他者との寄り添い・チャリタブルリーディング・メタファーないしアナロジーの重視——にある。しかし残念ながら、これまで書いてきたように、皮肉にも、それが山野さん自身の記述の中であまり成功していないように見受けられる。
2022/05/23(Mon.)——遠足
16:9の画像が、写真からそのまま貼る形では、はてなブログにはアップできないらしい。めんどくせ。
2022/05/22(Sun.)——恵文社、アンスコム「生の事実について」
恵文社の展示が今日までだったので滑り込んできた。あついの勘弁してほしい。unpisさんの作品集を手に入れてご機嫌になった。あと、シールを買ってスマホのクリアケースに挟んだらいい感じになった。
アンスコムの「生の事実」を読んだ。だいぶ難しかったが、訳註4のおかげでだいぶ理解が進んだ。
2022/05/17(Tue.)——お休みと元気がない
先週の後半あたりから——つまり日記が途切れたあたりから——みるみる元気がなくなっていって、先週末から今週はじめはほとんど動けなくなっていた。そういえば、2022/05/12(Thu.)は『なみのこえ 気仙沼』(2013)と『三度目の、正直』(2022)を観た。先週末は、大阪までお出かけして、エスパス ルイ・ヴィトンのリヒターの個展や中之島美術館の展示を観たかったのだが、体が動かなくて断念した。
平日は毎日1〜数コマ授業がある。授業だけをみたら拘束時間は大したことないのだが、授業に出るために身支度をしたり予習復習をしたりといった手間を勘案すると、これは相当つらい。数日の間に3-4コマ授業がかたまっている方が逆に楽かもしれない。土日も、読書会やらなんやらで潰れがちだし、そうした日を狙って人と会う用事などをつけておくと、実質休みがなくなる。これは別に失礼でもなんでもないと思うので書くが、大抵、人と会うことは私を少なからず緊張させるので、人と会う日は全く休みではないし、授業がある日よりも相当疲れる。休みの日に買い物に行ったり映画を観たり展示を観たりしてももちろん疲れるが、その疲れは大した問題ではない。
今日も授業が2限から4限まであったのだが、すべて休むことにした。授業を休むと気分が落ち込みがちで(真面目なので)、出席して無理矢理人の話を聞いたり自分の意見を述べているうちに元気になってくることもあるのだが、無理矢理それをするための元手となる元気すらなかったからだ。まあサボりの練習ということにでもしておこう。
ここ半年くらい、この「元手となる元気」とはそもそも何か、どれくらい元気でなくともそれがあると言えるのか、について考えている。「元手となる」には、何に対してか?という問いを考えることができて、それに応じて必要となる元手元気の程度も変わってくる。実践的には、元手元気が少なくても着手できるものを用意しておいて、それをやっているうちに調子が出てきたら、より多くの元手元気を必要とするものに着手して……といった具合で助走をつけるのがベストだろうか。
言語化について。なんだか言語化言語化とうるさい世の中だと思う。
自分は悩み事とか困り事を言語化する能力にはかなり長けていると思うのだが、その手の問題は言語化しただけで直ちに解決されるものでもないし、必ずしも解決のために言語化される必要もない。
最近は言語化していったものが片っ端から、「要はバランスが大事」という教訓に辿り着きがちで、そこからはもはや個々の事例にあたりながらそのバランスを見極める作業になる。そこではもはや言語化(抽象化)の役割が消える感じがある。
2022/05/11(Wed.)
例えばある状況がどうにも苦痛だったり、なんか好かんな、という場合、対処として普通なのがその状況を変えたり、別の状況に移ることだ。これは別に普通すぎて、何も言っていないのと同じですらある。しかし、より不穏な対処を取ることもできて、それは、その状況を苦痛だと感じる自分を変えてしまう、というものだ。自らの選好を変えることで、その状況に苦痛を覚えなくなり、むしろ喜びさえ覚えるようになればしめたもので、すっかりその状況に適応したということになる。自らの選好を変えてしまうのは(特に意識的にそれをやるのは)困難だと思われるが、状況を変えることの方が困難なこともしばしばあるだろう。この対処が不穏なのは、選好を変えることである種別の自分になってしまう、ということに関連する。それが(超越的な観点から見たときに)、ポジティブな変化であれば「成長」などと呼ばれるのであり、ネガティブなそれであれば「闇堕ち」などと呼ばれるのかもしれない。恐ろしく、不穏であるのは、この評価が内在的な観点からは不可能だという点に存するのではないか。
2022/05/10(Tue.)——2限サボり・『POSSESSOR』を観る
なんだか気が重たかったので、起きてはいたのだが、2限を休むことにした。と言っても、潜りなのでそれほど覚悟が要るわけでもない。そもそも授業は正規履修だろうがなんだろうが勝手に休めばいいと思うが——発表担当とかでもない限り——、自分は真面目なのでどうしても欠席することに対する苦手意識が強い。こうやってサボり慣れていきたい。
真面目なので、3限と4限は出席した。2限を休んで寝ていたおかげでだいぶ頭が働いて、結果としていろいろ面白いことを考えられた。例えば、大森荘蔵のレトリックについて。
夜は久しぶりに気が向いたので映画を観に行った。ブランドン・クローネンバーグの『POSSESSOR』(2020)。(以下ネタバレするかも?)
タイトルの文字が鏡合わせみたいになっているデザイン好きがち。TENETとかもそうだ。血がたくさん出る映画を観るのは久しぶりで結構ウキウキした。元気じゃないとこの手の映画は観られない。
設定としては、SFでお馴染みというか、装置をつけて他人を乗っ取りあれこれするというどこかで観たことあるようなものだったが——ここで独創性を出すのは難しい——、映像表現は見応えがあった、他人の「中に」入るときの映像表現とかは、おおーと思った。とはいえ、予告編でチラっと見たことある映像も多かったので、あまり驚いたわけではなかった。何度も言うが、血がたくさん出る映画だった。暴力やら衝動やらがコントロールできなくてうわーみたいな映像としては楽しかったです。ビルや街並みをゆっくり回転させてみせる映像も、恐怖をじわじわ増強させていく。最後に、大丈夫じゃないときは、大丈夫じゃないって言おうな……という映画だった。大丈夫じゃないよあなた。
映画を観るときには、その時上映している他の映画をチェックしたり、本編前の予告編を見させられたりする(そういえば、出町座くらいの量の予告編なら喜んで見るのだが、MOVIXとかでやっている予告編の上映はマジで長すぎて(それに予告編も一辺倒でつまらないしそれで映画を観たいとも滅多に思わない)本編に入る前に疲れてしまうのでやめてほしい)。で、それによってどんどん観たい映画が増えて、結果として映画を観に行く——このようなポジティブフィードバックが生じるようになっている。もちろん、生活はもっとごちゃごちゃしているので、このフィードバックはいつしか切れて、あまり映画を観ない期間が訪れる。
4月は映画あまり観ない期間だった(そうする時間的余裕もあまりなかった、新学期だし)。ただ今日映画を観に行ったことで、映画をたくさん観に行く期間にスイッチした感覚がある。5月末までの出町座の上映スケジュールを確認したが、どれも私好みの映画の雰囲気を醸し出していて、楽しみが増えた。ありがとう出町座……。
2022/05/09(Mon.)——のんびり・中庸・サカナクション
昨日は泣く子も黙るほどの活躍ぶりだったので、今日はのんびりめに活動した。昼過ぎに動き出し、研究室で論文のコピーをし、4限に出て、that's all for todayだ。
最近は、頑張ったら意識的に休む(サボる)ようにしている。良くも悪くも自分はクソ真面目なので、その悪い側面が出ないように中庸を取ろうということである。要は、〈何もかもバランスよく〉という面白くもない真理に到達するのだが、これは、真理がいつも面白いわけではないという教訓として受け取るべきだろう。
もう一つ哲学的に問題なのが、意識的にサボるということがすなわち真面目さの発露ではないかという懸念だ。僕は真面目すぎるので、意識的にサボっていこう——こうした態度は全くサボり屋のそれとは真反対であるし、そもそもサボるというのはそういうことではないだろう(とも言える)。意識的なサボりのうちにいる限り、(極度の)真面目さからの脱出はできておらず、むしろそうした真面目さを踏み固めているのではないか。こういうことだ。サボる仕方にも徳のようなものがあるのかもしれない。いずれにせよ、これは実践的には些細な問題かもしれないが——サボって体や精神を休められたらそれでOKなので——、結局のところ中庸の状態に至ることができないという理論的な懸念も導くので、私にとっては切実な関心事である。(こうした考察もまた、真面目さの発露なのだが。(そしてまた、この注釈も真面目さの……))
今日はサカナクション15周年記念スタジオライブの最終日だった。7日から始まって、毎日セットリストが違うという狂気の沙汰なのだが、9日のセットリストが僕の好きな曲がいくつもあって大変嬉しかった。山口一郎も「さよならはエモーション」結構好きらしい。他には、「聴きたかったダンスミュージック、リキッドルームに」、「Mellow」、「ボイル」、「忘れられないの」などなどもよかった。
2022/05/08(Sun.)——東山横断・じじ読・アブスト提出
10時に総人広場に集合して、東山を横断し、三井寺および琵琶湖まで踏破した。如意ヶ嶽から三井寺に降っていくときの勾配がやばかった。
昨日よりか気温がグッと下がり、風も冷たくて爽やかな日だった。ハイキング日和。
結局家に帰ったのは19時前だった。iOSのヘルスケアアプリによると、登り降りした階数は133階分に相当するらしい。5階の研究室までの階段が非常にしょぼく見える。まあ400メートルくらい上ったのでそらそうか。
今日の僕はすごいので、20時からの読書会(第2回じじ読)もちゃんと主催し、哲学若手研究者フォーラムの発表要旨も確認して、提出した。えらい。
2022/05/07(Sat.)——散髪・アブスト執筆
散髪してカッコよくなった(当者比)。その後は大学で、哲学若手研究者フォーラムのアブストラクトをぽちぽち作った。卒論で書いたときの要旨はなんかもうエイヤっとやっちゃったので、もう少しわかりやすく書くように努力したつもりだが、さてどうだろうか。哲学的(あるいは哲学史的)な重要性と他分野にとっての重要性も書きたかったのだが、流石に溢れそうだったので、発表予定の内容をまとめるだけにしておいた。
2022/05/06(Fri.)——GW明け授業
自転車の点検をして、GW明けの授業を受けて、会議に参加して一日が終わった。整備された自転車はとても静かに走る。スタッフが部品を締め直していたのだが、そのおかげか乗っていてもブレが少なく感じる。お昼からは、頭に鉛が詰められたような重さを覚え、あまりいい気分ではなかった。GW後半は元気だったのでそのツケが回ってきているのかもしれない。
2022/05/05(Thu.)——ピクニックその2
昨日に引き続き、ピクニックに出かけた。鴨川でピクニックをするときは、葵橋あたりが日陰も多く、落ち着いていて良い。デルタも賑やかでいいけど。昨日のイモムシの反省を踏まえて、今日は枝の影で覆われているけれども枝の下ではない場所にシートを構えた。成功。時々馬鹿でかい鳥が置物みたいに佇んでいてウケる。写真にあげたやつは、河原をうろうろ歩いては川べりに仁王立ちして、人間たちにモテモテだった。
鳶と烏の空中戦を眺めながら『悪い言語哲学入門』を読み切った。なかなか面白かったし、文献案内と注が充実していて、自分の関心を深めるのに大変便利だ。
無印良品のレジャーシートが良い。鴨川の緑の上には白が映える。
— 迅亮 (@eudaimon_richo) 2022年5月5日
最近は、いかにして業績主義と距離を取るかを意識している(業績を重視するのが悪いというわけでは全くない)
— 迅亮 (@eudaimon_richo) 2022年5月5日
2022/05/04(Wed.)——ピクニック
昼過ぎに起き出して、どうやら天気が良さそうだったので鴨川にピクニックに行った。昨日買った帽子は大活躍したし、これからもたくさん被るだろう。河川敷で人々がレジャーシートを広げて思い思いに過ごしており、たいへん結構なことだった。僕もお昼ご飯を食べて、隣のグループの小さな子供がつくるシャボン玉を浴びながらぼーっと過ごした。シャボン玉浴びるのってよく考えたらコロナ的にだいぶまずいのでは?、と今書いていて思ったが、まあどうだっていいか。
本を読もうかなと思った矢先、レジャーシートやら膝あたりに小さなイモムシが這っているのを発見してしまい、そそくさと退散した。あとアリとかも。最初は適当に払いのけていたのだが、本を読み始めながら、イモムシやアリやそのほかの存在感ゼロの虫が僕の周りをウロウロしている妄想が止まらなくなって、本の内容が全然入らなくなったので退散したというわけだ。
連休中だろうがお構いなしにメールをぽちぽちした。
2022/05/03(Tue.)——マグカップと帽子を買う
気が向いたので、三条へ参上していろいろ買い物をした。目当ては、ミッフィーのマグカップ、帽子、母の日のギフト(なんか良いのがあれば)だ。
帽子なんてほとんど被ってこなかったのだが(なぜなら全然似合わないので!)、最近日差しがキツくなってきたのと、髪の毛をセットしなくても外出しやすくなるようにしたかったこと、まず何よりもこの二つが理由で帽子を探しに行った。事前にネットで下調べしておいたTHE NORTH FACEのハイクハットを被ってみたら存外よかったので、買った。つばのクタっとした感じと角度がいい。天然繊維っぽく見えるがポリエステル素材で洗えるし、外すこともできる紐がついていて、自転車に乗るときも具合が良さそうだ。色はナチュラル。オンラインではナチュラルにしては濃く、ブラウンにしては薄い色に見えたので、色が気に入るかどうか不安だったが、実物はナチュラル寄りでよかった。
食料品以外の物を買うことには元気が必要なので、健康を測るバロメータとなる。
2022/05/02(Mon.)——GW前半
4月下旬は元気で平気な日が多かったのだが、5月に移る過程でどうも調子が悪くなり、GW前半はほとんど寝て過ごした。そのまま授業が続いていたら疲弊しきっていたと思うので、まあラッキーだ。最近はビデオゲーム実践に少し関心があるので、ゲーム実況などを見ている。自分でゲームをするのはちょっとめんどくさい。それに、どうせやるならSwitchとかやりたいのだけど、Switchを買うお金があったら、本や服や絵が欲しい。そのくらいの熱量だ。
GW直前にどかどか面談を申し込んで、いろいろな先生といろいろな話をした。面談では、割と抽象的なこと(例えば研究のスタイルとか、研究の進め方とか)を尋ねてみたりして、深い話を聞けたと思う。(それもあって疲弊したのかもしれない。そうはいえ、その時間の有意義さは少しも減らない。)その先生の授業を受けたり書いたものを読んでいるだけでは流石に見通しにくい部分があって、その部分をちょっと見せてもらうためには面談をするのが一番だったりする。