diary|2022/02

2022/02/28(Mon.)——証明写真と「上/下」「大/小」

昨日までは相変わらずエネルギーが枯渇しており、一日のうち体を起こしている時間が3時間にも満たないくらいだったのだが、今日は比較的元気。布団から出たのは昼過ぎでだったけれども、入学手続きの書類を揃えたり、図書館を渡り歩いて資料を集めたり、病院に行ったり、部屋を掃除したりとなかなか上出来だった。

顎の痛みはマシになってきたが、食事をするときにはまだまだ気になる。なので顎について色々と考えている。日常的には「顎」は口の下側にある部分を指すのに、「上顎」「下顎」と言われるときには「顎」は必ずしも下側を指しているとは限らない。これはちょっと変な感じがする。顎以外にも同じような言葉がありそうだ。あ、「プリニウス」とかもそうか。「大プリニウス」と「小プリニウス」。こちらは固有名だ。

大学院の学生証のために証明写真を撮った。証明写真が必要なときはせいぜい数枚なのに、あんなにたくさん印刷させてあんなにたくさんお金を取るのは、やっぱり馬鹿げていると思うのだが。あと、証明写真で撮るとなぜか目や輪郭(顎周り)がだいぶ左右非対称になってしまって、こんな顔してたっけと心配になる。普段の鏡で見ている自分はいわば「補正済み」なのだろうか。

 

2022/02/24(Thu.)——顎が痛い

ここしばらく元気がないので、夜ご飯を調達するために外に数分出るくらいで、一日のほとんどを家の中で過ごしている。本を読みたいとも思わないので、布団でただじっとしている。なんか顎が痛くて、口を大きく開けたりするのがしんどい。何か楽しいことないですか。

特に映画を観る気も起こらないのだが(何にも気が向かないので)、一応Prime Videoで『スパイダーマン——スパイダーバース』を観た。絵もおもしろく、テンポもよく、映像と音楽の相性もグッドで、近年観たアニメ映画の中で相当に満足度が高い。一気に4キャラ出てきたあたりで、「ブルータスお前もか」と我慢ならなかったが、全体的には低評価をつけ難い作品だった。かなり濃い〜映画だったので、調子の悪い人間は4-5回に分けて観なければならなかった。そもそも、調子の悪い人間が観て楽しめるような映画ではないのだが。

なんか最近『タコピーの原罪』なる漫画が流行っているらしく、Twitterのトレンドとかに上がってくる始末だ。いわゆる「考察班」がとてつもない勢いであれやこれやと解釈合戦しているのを見ると、ちょっとだけ悲しくなる。

 

2022/02/19(Sat.)——君島と荒谷

起きたときには既にかなり眠たくて、体もひどく重たかった。カーテンを開けてみるとどうやら雨が降っているらしい。高校生くらいまでは低気圧だろうがなんだろうが関係なかったのだが、大学生になったくらいからめっぽう低気圧に弱くなった。運動しなくなったからだろうか。

本当は一歩も家を出たくないくらい気分が悪かったのだが、ライブを観にいかねばならなかったので、重たい体を引きずって梅田まで来た。京阪で座った席の近くにおしゃべりに興じる中年女性たちがいて、かつそうした声を遮るためのイヤホンを忘れてしまったため、道中でいっそう疲れた。君島大空(独奏) / 荒谷翔大(yonawo)のツーマンでした。そういえば、雨がしっかり降っているときにライブハウスに来たことはほとんどない。それと、ライブの情報が出た瞬間にチケットを取ったので、最前列でかなり近かった。二人を同時に見ることができないくらい。

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君島。近い。

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荒谷。近い。

君島大空のライブには何回か行ったことがあったのだが、荒谷ないしyonawoのライブは初めてだった。荒谷のパフォーマンスはシンプルだが美味しい小鉢の料理を食べているような具合で、声も低く落ち着いた滋味があり、君島大空とは好対照をなしていた。足元にあるエフェクターはすべて君島のもので、荒谷は何も使わないようだった。荒谷はこれからソロプロジェクトも始めるそうで、その曲をたくさんやっていた。10曲目の「氷のように燃えている」は君島がギターを弾くらしくて、その他もなかなか期待が高まる曲が多かった。

ちなみに、会場はほとんどが君島ファンらしく、受付で「本日の目当てはどちらですか?」という質問に対して、君島と答える人がほとんどだった。ライブ後の物販も、君島は何十人も並んでいるのに、yonawo物販は誰一人として並んでいなかった。悲しい。君島ファンには小洒落た格好をした女性ファンが多いので、ライブに一人で行くと、浮く。近くにおしゃれな人が多いと怖気付いてしまうし、こちらも相応のおしゃれをしないといけない気がして、それはめんどくせーなと思う。

セトリは以下。

荒谷翔大
01-天神
02-202
03-good job
04-いかれたBaby
05-ダンスホール
06-kissbug
07-魔法
08-夢霙
09-消えない
10-氷のように燃えている
11-木のアーチ
12-お正月

君島大空
01-銃口
02-火傷に雨
03-向こう髪
04-きさらぎ
05-そして僕は途方に暮れる
06-花降るときの彼方(新曲らしい。漢字合ってる?)
07-午後の反射光
08-光暈(halo)

荒谷×君島
Ec01-向こう髪(Vo. 荒谷)
Ec02-How Deep Is Your Love
Ec03-(You Make Me Feel Like) A Natural Woman
Ec04-蒲公英

そういえば、先日『スパイダーマン——ノー・ウェイ・ホーム』の話をしたが、大事なことを書き忘れていた。スーツの話を。トムホ版のスパイダーマンはあまり好きでないことはすでに述べたが(MCUというインフレ装置のため)、スーツに関してはトムホ版が最高だ。もちろん、このスーツもトニー・スタークが用意したというインフレ要素が認められるのだが、私が賞賛したいのはスタークがスーツを用意する前の、ピーター・パーカー自作クソダサスーツに既に認められるある仕掛けである。目だ。過去のスパイダーマンではサングラス?を使って目の部分を作っていた気がするが、これだと目が特定の形で固定されてしまう。ふつう私たちの目はさまざまな表情を見せるのに。対照的に、トムホ版では、目の周りの黒縁が動く仕様になっている。自作スーツのときでも、ゴーグルの縁の中で黒縁が動いて非常に豊かな表情を見せる(どういう仕組み?)。顔をすべて覆う系のスーツは中の人の表情が見えないという難点——アイアンマンでスーツの中のスタークの顔が映し出される演出は、この難点のカバーの仕方の一つである——があるが、トムホ版のスパイダーマンは、それをクリアーする方法を示している。これまでのスパイダーマンにはなし得なかった偉大な発明だと思う。

 

2022/02/17(Thu.)——はじめて観た濱口竜介

最近は平気な日が増えてきたので、映画を色々観れるようになってきた。難しい本はまだ厳しいが。風は冷たいけれど、日差しはあったかくて、風を差し引けばそのまま春になりそうな天気だった。日が落ちるとすぐに寒くなった。

なぜか研究室の先輩が続々と濱口竜介作品を観ている。濱口監督は相変わらず映画賞を数多く獲得しているが、その話題性と、それに伴う『ドライブ・マイ・カー』のロングラン上映などによって、シネフィル以外にもかなりその名が知られてきたという印象がある。こう言うと古参アピールのようだが、それは明確に否定しておこう。僕が最初に観た濱口作品は、2018年の秋口に出町座で観た『ハッピーアワー』だからだ。本物の古参なら、おそらく『PASSION』くらいから観てるのでは?

demachiza.com

最初に『ハッピーアワー』を観たこのとき、私は学部一回生で——今や卒業しようとしている!——、シネフィルという単語も知らないし、MOVIXとかでやってるような映画しか観たことのない若者だった。おそらく上映時間317分という物珍しさと、難しそうな映画を背伸びして観てやろうというチャレンジ精神とから、偶然観たのだが、当時のことを思い出せば、ずいぶんと不思議な体験だった。めちゃくちゃ棒読み台詞なのも意味がわからなかった。(よく寝落ちせずに見通したものだとも思う。タイクツな画面なのだが、なぜか釘つけにされていて、5時間ずっと目を離せなかった。)もちろんスローシネマという考えも知らなかったし、面白さをはっきりと感じられたわけではなかったのだが、「この映画はいままで観たのと決定的に違うぞ」という漠たる感覚だけがあった。あるいは、面白さを感じられてはいるが、頭では理解できていないというか、言語になる以前のモヤモヤとした捉えどころのない面白さだった。(当然、この捉えどころのなさは私の映画を観る能力の欠如による。)

次に観た濱口作品は、そのすぐ後に出町座で上映された『寝ても覚めても』であった。前に観た『ハッピーアワー』の変な感じをもっと理解できるのではと思って、別の作品を観てみようとしたわけである。もちろん長さは半分以下なので全然雰囲気の違う映画だった。『ハッピーアワー』を観た後は、時間感覚が狂って頭がぼんやりとした感じだった一方で、『寝ても覚めても』を観た後は、その勢いにぶっ飛ばされて、しばらく椅子から立ち上がれないよ〜という感じだった。映画を観て打ちのめされる感覚を覚えたことは一度たりともなかったので、もう怖いくらいだった。麻痺した脳を引きずって帰り道をぼんやり歩いていたら、朝子の最後の台詞に顕著に示される映画のテーマとカント美学が電撃的につながった。河合橋の東詰で信号を待ちながら、どんどん喧騒が遠のいて、あたりがギラギラと眩しくなって、心臓が止まらなくなったのを覚えている。

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カント美学を通して『寝ても覚めても』のテーマ(の一つ)が分かった——この経験を発端として、以来、濱口作品の虜になってしまっている。濱口作品の面白さ(あるいは面白くなさ)を語れる人が増えるのは一ファンとして本当に嬉しい。引き続き、布教を続ける。

すでに濱口作品について結構喋ってしまっているが、もう少し映画の話。今日はレイトショーで『スパイダーマン——ノー・ウェイ・ホーム』を観た。MOVIXの入口で律儀に体温を測ろうとしたら、寒い中を自転車で来たせいか、おでこの表面温度が30℃だった。「表面温度異常!表面温度異常!」と機械が気でも触れたかのように叫び始めて、かなり恥ずかしかった。それはそうと、アベンジャーズシリーズのフェーズ2あたりから、マーベルスタジオの「インフレ」傾向にはうんざりしていたので、最近のスパイダーマンもそれほど好きではなかったのだが、結果としてはなかなかよかった。

(以下、関連MCU作品のネタバレも含むので注意)

www.spiderman-movie.jp

アベンジャーズの気に入らないところその一。キャラのインフレ。シリーズが進むごとにキャラがどんどん増えていき、どう考えてもキャラの強さのバランスが取れてないだろ!と言いたくなる布陣になっていったのは残念。(まあよく考えたら、最初からゲームバランス悪かったか。)もちろん、単純な足し算で面白いものができる、というのはよくわかるし、最初のアベンジャーズとかはその集結の凄さに酔っていられた。しかし、シリーズが進むごとに、集結の凄みも感じられなくなり、どんどん慣れていってしまった。その慣れを超えるためなのかは知らないが、結果として、シリーズを重ねるごとにインフレさせることでそれに対応したのがまずかったと思う。無視しえたキャラたちの強さの差が、もう明らかに破綻してるだろレベルまで達してしまった。MCUというコンセプト自体がその危険と隣り合わせなのだが、その危険にまっしぐらに突き進むシリーズを追うのは辛かった。そりゃサノスも指パッチンで人口半分にしたがるわ。

(辛かったのだが、第3作目のトムホ版スパイダーマンは割と気になっていたので、過去のスパイダーマンシリーズに加えて、MCUのシリーズも頑張って観た。『ノーウェイホーム』はそれくらい予習しないとイマイチよくわからないかもしれない。アベンジャーズの気に入らないところその二。シリーズをダラダラ続けすぎているせいか、最新作を観ようと思っても、直接の続きになっている作品が多いため予習に時間がかかる。)

『ノーウェイホーム』では、過去のスパイダーマンシリーズの敵味方を集結させるための仕掛けとしてドクター・ストレンジがいるだけで、これとスパイダーマン(1・2・3)以外に大したヒーローはいなかったので、インフレ傾向はあるもののマシだった。とはいえ、ドクター・ストレンジの能力にはやはり納得がいかないポイントが、もっと言えば、哲学的に考え込んでしまうポイントがいくつもあるので、落ち着いて観ていられない。ところどころ、敵味方それぞれにおける戦力の違いが気になったが(例:グリーンゴブリンってそんな強かったけ?そんなにパワー系だったけ?)、それよりも世界を移動してやってきた奴らがチョロチョロ絡んでいるのは新鮮だったし、これは過去作を追ってきた人やスパイダーマンシリーズ好きにとっては結構嬉しいのでは。

トムホ版のスパイダーマンは過去のシリーズと比べてもだいぶお子ちゃまというか、青二才だなーという印象が強い。とはいえ、今作では(最初からいなかったベンおじさんに加えて)メイおばさんも死んでしまった時点から、これまでは若くて軽かったピーター・パーカーの肝が据わって、ちゃんとしたスパイダーマンになったなという印象を与える。逆に意地悪に言えば、トムホ版のピーターのお子様度合いは、育ての親たるおじとおばの両方を失うくらいじゃないといけないほど酷かったのかもしれない。

他にもシリーズを貫通した伏線の回収などがあって、シリーズを観てきた人にとってはかなり楽しめるだろうし、そうでなくても最初のドック・オクとの戦闘はいい映像だと思った。伏線回収については嫌というほど解説動画がYouTubeに上がっているので、気になる人はそれを見ればいいだろう。(彼ら彼女らは、MCUシリーズを追うのが辛くて仕方がないわれわれの味方でもある。)

疲れてきたのでこの辺でやめておこう。

自分があと何度か『ノー・ウェイ・ホーム』を観れるのなら、「セカンドチャンス」や「治療fix」——異常状態を正常に治す、かけられた呪いを解く、背負ってしまった業を癒す——というキーワードを通して観たい。色々発見があるだろう(セカンドチャンスに期待!)。前者の言葉はたびたびキャラが発していたのだが、字幕ではさまざまに訳し分けられていて、「セカンドチャンス」に込められた意味があまり反映できていない。

 

2022/02/16(Wed.)——「興味深い」の有り難み

久しぶりの更新となったのには訳がある。第一に、体調がなかなか優れない日が多かったため。第二に、体調が優れている日には、日記を書く以外の比較的大変な仕事をやろうとしたためである。この仕事は先日も少し話した「研究を他者に語る」関連のものだ。

2/10には木曜サロン——学部や研究科、あるいはその出身の人たちが集まる交流会——をデマンドして、時間をたっぷりとかけて予行練習をした。このときは、発表自体ではなかなか研究内容が伝わらなかったのだが、同期が内容をざっくり噛み砕いてくれたり、その後の質疑応答や雑談を通してかなり理解が深まっていった。有意義な時間だった。

当日は、それを踏まえて発表内容を練り直していたのだが、発表15分質疑15分という短い時間だったためか、消化不良気味に終わってしまった。

例えば、ある化学者からは「真正性ってそもそも定義できるんですか?」という質問をもらった。私からは、〈日常的な真正性は肉付けが豊かなので定義するのが難しいし、どの対象の真正性が問題になるかによって全く異なるので何とも言えないが、トリヴィアルな真正性についてはいま発表したように定義できると思いますが〉と回答したのだが、何となく不服というか、あまり納得のいっていない様子であった。率直に言えば、真正性を定義できないのではと思うことは勝手だが、それが「本物の」疑問・批判となるためには反例を示したりする必要があるだろう。反例を示すこともなしに、そもそも定義できないのでは?とだけ言われても、困ってしまう。

もう一つ、ドイツ文学研究者や文字史の研究者からは、「ドイツのロマン主義などのいわば内からの真正性と、対象についてのいわば外からの真正性とを統合するような研究で、非常に興味深かった。それらの真正性の関わりについてどうお考えか?」といった質問が寄せられた。しかし残念ながら、私の研究は、前者の真正性(表出的真正性)をいったん除外して、対象についての真正性に話を限定していたので、ポイントを外した質問であった。(とはいえ、もっと十分な時間があれば、あるいは発表をうまく構成していれば、この辺りの議論の前提について話せたはずでもあるので、私にも反省点は残る。)

他の卒論生の「研究を他者に語る」も聞きにいったのだが、先生や学生のやりとりを眺めているうちに、「興味深い」という言葉の使い方には気をつけないといけないな、と改めて思った。どの発表にも「興味深い」と言っているとその有り難みがたちまち減っていくし、自らの理解を示すことなしにただ単に「興味深い」と言ってもほとんど有り難みはない。これは「興味深い」以外のほとんどの常套句に当てはまるだろう。「興味深い」を有り難く受け取るためには、(相手の理解が明示されない場合は)相手(の理解力)に対する尊敬があること、(逆に明示される場合は)その理解が的を射ていることが必要だろう。

 

2022/02/06(Sun.)——パワポの惨めさ

うちの学部では「研究を他者に語る」というプログラムが課される(以前までは強く推奨されるレベルの課題だったのだが、つい最近になって必修化した)。これは、卒論を書いた学生が、他の分野で同じく卒論を書いた学生や他の分野の教員に対して自身の研究を発表する、というものである。

もちろん自分もこれをやり過ごさなければならないので、しょうがなく準備を始めたのだが、いきなりパワーポイントを開いてしまって大変惨めな気持ちになった(真っ白なワードを開いてそこにいきなり何か書いていこうとするのが辛いのと同じアレ)。スライドで発表する系の課題は1・2回生くらいの頃からやっていなかったので、怯んでしまった。

とはいえ、「研究を他者に語る」では——この名称がそもそも気に食わないのだが——、発表資料はA4一枚でいいらしく、スライドを用意する必要はない。しかし他方で、A4一枚では研究内容をちゃんと伝えられないので、A4の資料の他に補足として何か使わなければならないのである。ScrapboxとかNotionを使えば、もう少し楽に作れるかもしれない。

うちの大学近辺ではなぜか自転車に乗りながら歌を歌っているご機嫌な人が多いのだが、こういう人たちに遭遇すると、怖くてたまらなくて、心臓がキュッとなる。図書館とかで喋っている人にならば「静かにしていただけますか?」と言えるのだが、道端で遭遇するご機嫌な歌い手たちに対しては、そうした注意をする根拠を(私の恐怖感という個人的な印象を除いて)持ち合わせていない。

とはいえ、中には意に反して声が出たり、体が動いてしまったりする人もいるはずだし、そうした人たち自身がそれに苦しんでいたり、周囲の人からの視線などを怖いと感じていたりすると思う。そしてその辛さは、私がとっさに感じる恐怖感よりもずっと強いものだとも思う。だから、自分がそうした場面で恐怖を覚えるときには、こうした自分の反応に対する苦々しい感じも同時に覚える。

 

2022/02/04(Fri.)——口頭試問おわり

2/3はオフにしてBALを中心に河原町三条〜四条をうろうろした。結構楽しかったが、ランチが多かったり、シンプルに(いつもよりかは)歩きすぎたりしたせいで、家に帰った時はもうぐったりしていた。頭がかなりざわざわしてうるさかった。

2/4は卒論の発表会ないし口頭試問があった。うちの審査は他の専攻と比べると変だ。まず、他はふつう審査は教員2人によって行われるのに対して、人間存在論の審査は教員全員、つまり4人だし、加えて、他は発表の際にレジュメを用意する必要があるのに対して、うちでは要旨を読み上げるだけだ。審査教員が多い分、質疑応答にかける時間を確保するために、このようになっているのだろうか。

口頭試問は(中間発表の時もそうだったが)フランクな雰囲気で進んでいった。例えば、始まる直前にZoomのプロフィール画像を褒められたのだが、「今言うことじゃないだろ!」と内心笑ってしまった。頂いた質問はどれも意義のあるものだったのでよかった。正確には、既に自分が検討していたものの、何らかの理由で——それは、ただの怠慢のためだったり、書いたら本筋からの逸脱しすぎてしまうためだったりする——書かなかったことがきちんと質問されて、先生たちは流石だなーと思った。

最近少しずつ頭が冴えてきたおかげで、卒論で書いたことを少しずつ整理できるようになってきた。いい感じに整理してどこかに投稿したいね。

ブログの編集画面では二倍ダッシュがちゃんとつながっているのに、プレビューや実際のブログの画面では繋がらず、長音符を二つ繋げたような格好になってしまう。ダサいので勘弁してほしいのだが、見た目上だけでつながっていても文字コード(?)として二倍ダッシュになってなきゃ意味ねえじゃん、と思うのでこのままにしている。ダサいので勘弁してほしい。

 

2022/02/02(Wed.)——修論公聴会に参加

今日は修論公聴会があったので、研究室の先輩の発表や関心のある発表を4本ほど聞いてきた。修論に目を通していないものもあったので疲弊した。哲学系の教員は合わせて4人で、他の人文科学系の分野と比べると充実しているからなのか、審査をする3人ともから有意義な質問がなされていた。そうはいえ、専門外の文章を読んでまともな質問をするのはめちゃくちゃ難しいと思うので純粋にすごいなーと思っていた。

美学・美術史の発表も聞きにいったのだが、ときどき「それ聞いてもしゃあないやろ」な質問やコメントが飛び交っていて発表者に同情した。特に、分析美学の発表の審査は本当に情けなかった。(公聴会のスケジュールを見てはじめて人・環で分析美学をやっている人を見つけた。分析美学はTwitterなどのSNSをやってる人が多いのだが、SNSにいなければ存在しない、みたいな雰囲気が出ていないといいなと思う。もちろんTwitterで有益な情報を集めやすいことは否定しないが。)

分析美学に対して、分析系でない美学を研究している方がその理解を述べるとき、大抵はポイントを外す(例えば、論理的な印象やある種の味気なさが「過度に」強調される)。あまり分析美学のテクストを読んでいないか、読んでいるとしても偏っているかで、無神経なことを言われがちだ。僕が不遇なだけだと願いたい。

それと、森さんが既にブログで書いているが、分析美学の個々の研究を評価する上で、結論だけを見て内容をどうこういうのは片手落ちである。

morinorihide.hatenablog.com

もちろん結論が大事でないことはない。しかし、〈どういう前提をおいて、どういう議論によって、どういう結論を出したか〉という一連の論証過程を見ていくことこそが重要である。あるいは、重要な場合が分析系の研究では多い。あまり教育的でないコメントが出されるとき、往々にして前提と結論の間にあるこの論証構造が押さえられていないと思う。たしかに、論証をチェックする作業はかなり地味〜なので、局所的に理解可能な前提や結論といった目につくところにコメントが寄せられやすいのは(特に短時間の発表や質疑応答では)理解できる。許容はできないが。

スタートとなる前提からゴールとなる結論へ向けて、どれだけの距離を、どれだけ確かな足取りで進めたか——比喩的にいえば、これが前提から結論へ一歩一歩進んでいく系の研究の評価対象だろう。つまり、どこからスタートしたのか、どこでゴールしたのかというのは、単にそれだけでは評価対象とするには不十分である。例えば、「全員が納得するわけではない前提から議論を進めていないか」というコメントは惜しい。やや受け入れ難い前提から議論を進めていたとしても、その前提から意義ある結論を導いていたり、議論それ自体が厳密なものであれば、それほど深刻な問題ではないかもしれないからだ。代わりに、「同じ結論をもっと受け入れやすい(常識的な)前提から導けますよ」というのは結構手痛いコメントである。

 

2022/02/01(Tue.)——一日に映画二本はやや辛い

今日は映画を二本観た。一本目は、朝一にUPLINK京都で『NTLive ロミオとジュリエット』を、二本目は、夜に出町座で『PASSION』を。お気づきの方がいるかもしれないが、後者は昨日も観た。「おかわり」ということである。『PASSION』の衝撃たるやそれはもう凄まじかったので、もう寝ても覚めても『PASSION』のことを考えている(それとの関係で『寝ても覚めても』のことも考えている)。『ロミオとジュリエット』も普通に面白かったのだが、普通に面白かっただけなのでどうでもいい。——というのはやっぱりしょうもない気がしてきたし、面白かったのは間違いないので、やっぱり『ロミオとジュリエット』についても少し書こう。以下はネタバレするかもなので注意。

ところで、新風館は、キツネのカフェの投稿をインスタグラムでよく見かけるのだが、そうした投稿(投稿者)が苦手なので、新風館それ自体にもほとんど近寄っていなかった。けれども、今日ぶらぶらしてみて素敵な商業施設だということに気づいた。サカナクションもそうだったが、フォロワーが気に入らないからという理由で、フォロイーを遠ざけるのはもったいないなと反省した。ごめんなさい。

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閑話休題。『ロミオとジュリエット』の話だった。今回のNTLiveは予告も何も目を通さず観に行ったのだが、どうやらコロナ禍のせいで無観客で上演したものを撮影・編集した映画になっていた。いつものNTLiveの特色は、舞台全体を広めに撮る構図や、その構図のために劇場の観客が映り込む様(途中休憩で観客らがトイレに行ったり雑談に興じる様)が見えることにあると思うが、今回の『ロミオとジュリエット』はクローズアップが多く、さらにはフラッシュバックやフラッシュフォワードのカットを入れたりと、演劇というよりも映画らしい仕上がりになっていた。舞台の転換もほとんど時間をかけておらず(編集でカットされていただけかもしれないが)、全体的にテンポよく物語が進んでいった。

とはいえ、テンポのよさとして上述した理由よりもずっと大きいのが、演出サイモン・ゴドウィンの手腕だろう。ふつう3時間くらいはかかるところを、ロミオに毒薬を神父のところで調達させたり、ジュリエットが飲む毒薬の効果を22時間にしたり、登場人物を減らすなどして、90分くらいでまとめている。もともと5日間の目まぐるしい恋愛沙汰が、いっそう刹那的なものに映っている。私の腰やお尻がゴワゴワし出す前に終わるくらい早い。劇中で腑に落ちていなかった演出があったのだが、パンフレットの解説を読んで膝を打った。パンフレットもおすすめ。

やれやれ、ようやく『PASSION』の話ができる。昨日(1/31)は、登場人物や俳優も何も把握せずいきなり観たのだが、冒頭からいきなり多くの登場人物が出てきたこともあって、理解できなかった部分が多かった。しかし今日は、かなり文脈を補いながら見ることができた。彼ら彼女らの作品に描かれる前の関係性を踏まえた上で見ると、最初の同窓会(?)や家飲みシーンでの思わせぶりな目線やカットの意味がよくわかる。

それと、昨日は、映像に見惚れてたら台詞を追いきれず、台詞に集中していたら映像がよく分からずで、なんとも不器用に鑑賞していたのだが、今日はそのどちらともにまずまず集中して観ることができた。

昨日も少し書いたのだが、『PASSION』の果歩と『寝ても覚めても』の朝子は、おっとりして見えて発言や思考は抽象的で「かたい」ことを考えている点で似ている。しかし、『PASSION』ではパートナーの双方が違う誰かに一瞬なびいて戻ってくるのに対して、『寝ても覚めても』ではあくまでパートナーの片方が違う誰かに一瞬なびいて戻ってくる——このような違いがあると言えるかもしれない。

加えて、〈選択できないこと〉に注目することで、果歩と朝子の行動原理を理解することができるのではないかとも思った。とはいえ、行為選択ができない以上、それは実のところ行動の原理ではなく、主体の外、つまり世界の側にある原理なのだが。昨日も書いたが、果歩と朝子は〈恋愛のままならなさ〉を直接に映し出しており、そしてこのテーマは他行為可能性alternative possibilityがないことによって説明できる。果歩は「健一郎[漢字あってる?]を選びたかった」と話す。つまり、自分のことを好いてくれる健一郎を好きになりたかったが、現に自分は智也を好いてしまっている——自らの意志や行為を自分で選ぶことができないこの事態をその台詞は表している。(果歩の暴力論では、内からくる暴力は自分の意志で抑えることができる、暴力を振るわないことを選ぶことができる、と言われるのだが、それを言う果歩自身が自分の反応や行為を全く選べていないのは、皮肉だ。)他方で、朝子が、麦との別れを決意していたにもかかわらず、亮平との婚約直前に麦の方になびいてしまったことも、本人の意志ではどうにもならない様を描いている。

自分の行為を自分の意志で選び取ることはできない——こう考えると、偶然がありえないものに思えてくるかもしれない。しかし、ある事態を想像できる中で別の事態が起こってしまったとき、それは偶然になるのだろう。起こることはただ起こるのであって、他のあり様などありえず、それゆえあらゆる事態が必然的にそうなのだとしても、別様が想像できる際にはその事態は偶然と呼ばれることになる。無理矢理だが、こうすれば濱口監督の最新作『偶然と想像』とも関連が見えてくる。