diary|2022/01

2022/01/31(Mon.)

2022年も12分の1が終わった——なんて無粋なことを言う人は嫌いだ。いやまあ、それは事実だし、実を言うと大して嫌いでもないのだが、その言動はただ人を焦らせるばかりで何もいい効果をもたないのではないかと疑っている。

気が乗らなくて放置していた読書会(なん読)の世話をしたり、新しく本を何冊か読み始めたりと、かつて難なくこなしていたことを再開した日だった。2月のなん読はお休みとして——担当者がいなさそうなのと、自分が担当するとしたら2月はやや忙しないので——、次回は3月3日にした。読む文献はまだ決めていないけど、候補がどれも面白そうなので迷っている。とはいえ、まだ文章をバリバリ読めるほど元気ではない。新しく読み始めた本はどれも軽めの本だが、集中を留めておくのが難しくてすらすらとは読めない。

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夜に出町座で「PASSION【濱口竜介監督特集上映:言葉と乗り物】」を観た。以下はネタバレ注意。

ものすごく台詞の多い——それも「重い」台詞の多い——映画だった。『偶然と想像』にも出てきた俳優陣が多く、他にも『永遠に君を愛す』の岡部尚などが出ていた。岡部さんの演技は『PASSION』の方が垢抜けた感じというか、自然な雰囲気で好みだった(『永遠に君を愛す』は2009年、『PASSION』は2008年の作品らしい)。『PASSION』の魅力はなんといってもその会話劇にあるのだが、会話劇というよりもむしろ剣戟、銃撃のようだった。台詞がぶつかる音がガチンガチンと聞こえてきそうなくらい、言葉の応酬が凄まじかった。和やかな雰囲気の場面を眺めているうちに、気づいたらいつの間にか緊張感のある場面にスッと入り込んでいて、息を呑む。

他の濱口監督作品もそうだが、映画を観た後にあーでもないこーでもないと話したくなる映画だ。いつも映画は一人で観に行くので感想を伝えられる人がいないのだが。備忘録として、河井青葉の演じる果歩について一言。果歩はふわふわとした雰囲気を醸しつつも、口を開けばかなり重たいというか抽象的で哲学的なことを言う。学校で生徒に訴えた「暴力」観や、終盤の長回しでケンイチロウ(漢字忘れた)に話した「奇跡」観は、相当に鋭いので、のんびりしていると置き去りにされてしまうくらいだった。

(しかし、この手の抽象的な洞察は理想的すぎて現実には手が届かないかもしれない。事実、前者の「暴力」観については、死亡した生徒に暴力を振るった——そして今は標的を移して別の生徒をいじめている——不良生徒が名乗り出て、自分は許されるのかと果歩に問いつめる。さらに驚くべきことに、クラスのほとんど全員がこの意味で「不良生徒」であることも明らかになる。とどめに、そのクラス以外にも……。果歩の洞察は、この無慈悲な現実を前に、夢みがちでどうしようもない理想として崩れ去るように見える。)

私も途中で脳が処理落ちしたし、あと何回か観ないと台詞を落とし込めないだろうと思う。『寝ても覚めても』の朝子も、おっとりした様子からは意外なくらい芯の通ったこと言うキャラで、果歩と朝子は結構似ている。映画自体も、どちらも〈恋愛のままならなさ〉を描いているという点で似ているかもしれない。

guzen-sozo.incline.life

 

2022/01/30(Sun.)

最近夜にあまり眠れなくなってしまって昼夜が逆転しつつあったのだが、昼までになんとか起床してゼミに出席することができた。とはいえ、ちんたら準備してたら遅刻した。

昼夜逆転」とはよく考えたら変な言葉かもしれない。逆転しているのは私(の生活リズム)であって、昼夜ではないからだ。もちろん昼夜は長くなったり短くなったりするが、それは私のコントロール下にはないし、ましてや逆転させられるようなものではない。それとも、私が起きている時間を昼、寝ている時間を夜と呼んでいるのだろうか。いずれにせよ、こう考えてみると「昼夜逆転」は尊大な言葉にも思えてくる。

サカナクションのライブ「SAKANAQUARIUM アダプト TOUR」日本武道館公演を配信で観た。配信でも十分楽しめたのだが、やはり現地のライブは音響の評判がいいので現地でも観てみたい。現地のチケットは高いし、ずっと立ってなきゃいけないのが苦しい老人なので、あんまり気が進まないけど。というか、配信ライブを観るようになってから現地ライブの魅力が少し減ってきている。移動時間もいくらかかかるし、人混みに揉まれて人混みのペースに合わせてノるのがあまり得意ではない(リズム感がないという意味ではない)。現地と配信のチケットの両方があったら割と配信を選ぶかもしれない——会場が大阪とかの近場でも。

前に観た「アダプトオンライン」よりも全体的にコーラスがいい感じだった。記憶がうろ覚えだからこの印象は正確ではないかもしれないが。あと、会場でたくさんの人がわいわい踊っているのを見るのは少し楽しい。自分がそこに加わるのは嫌だとしても。アンコールの最後の曲の前に何やらエモいことをしゃべっていたところは「早く最後の曲やってくれないかな〜」と思ってしまったけど、サカナクションを追い続けているファンにとっては響くMCだったのだろうな。

サカナクションは中学の頃に聴き始めて高校の頃も聴いていたのだが、高校の時に出会ったとあるサカナクションファンがいやな感じだったせいもあってか、大学ではほとんど聴いていなかった(有名どころはほとんど聴いていたが)。

 

2022/01/26(Wed.)

ここは暑い。冬なのに。ありえないくらい暑い。おまけに空気まで薄い。入館した途端に生ぬるい塊に取り囲まれて息が苦しい。窓はあるが窓を開ける者はいない。附属サウナ、もとい附属図書館のことだ。

少しずつ頭が動くようになってきたので、簡単な本を読んだり映画を観たりしようと大学までやってきたのだが、このことを忘れていた。もともと附属図書館の空調は古いこともあって(特に2階)空調の調整がうまくできない。だから夏はアラスカくらい寒いし、冬はサハラくらい暑い——どっちも行ったことないケド。さらには試験期間なので5億人くらい入ってる。そのせいかめちゃくちゃ空気が薄い。よくもまあこんな空間で勉強できるもんだなと感心さえしてしまう。

これは単なる文句なのだが、試験期間は困った利用者が増える。マスクを外していたり(まあいつもいるが)、友達とぺちゃくちゃ喋ったり、ただでさえ限られた席を荷物で占領したりと、まあキリがない。こんなときは図書館で作業しようとしても進まないしイライラするだけなので大人しく帰った方がいい。なんか吉田南の方がこういうルールを守る利用者が多いイメージがある。

出町座で「何食わぬ顔(long version)【濱口竜介監督特集上映:言葉と乗り物】」を観た。濱口竜介東京大学映画研究会で撮った8ミリ映画らしい。最近は新しめの映画ばかりを観ていたので、久しぶりに映像と音声がゲジゲジした映画でワクワクした。夜の競馬場はゲジゲジしたが映像の方が綺麗だ。ラストシーン——映画内映画のラストシーンでもある——、目隠し将棋ならぬ目隠しサッカーで野村が走り出すところは、なんかよくわからないけど痛いくらいの感動があった。あと、若かりし頃の濱口竜介が出演してた。デリカシーのない男子学生監督として。

明後日からは初期代表作の『PASSION』をやるらしい。これがいっちゃん楽しみ。

 

2022/01/25(Tue.)

しばらく日記の更新が空いた。その間に、雇用終了の旨を告げられたり、ゼミに出たり、Twitterを見て最悪の気分になったり、久しぶりに診察に行ったり、家で一日中寝ていたりと、まあ色々とあった。日記を書かないと一日一日が希釈されていって、「まあ色々と」としか言いようのない濃度になる。

気分が落ち込んでひたすら辛いという症状はかなり減ってきたのだが、気分が億劫で何もする気が起きない、集中できない、みたいな症状がメインになってきている。これ何度も書いている気がするな。卒論提出前後よりは、頭が少しずつはっきりしてきたような気もする。

体調のメモはこの辺りにしておいて——体調を記しておくことは記憶のためにも大事だが別に面白くないし——、文章についての文章を少し書く。先日、銭さんが日記で「孕む」という表現について気に食わないと述べていた。(銭さんの日記はかなり面白いのでおすすめです。)

2022/01/22
問題なり可能性を「はらむ」という表現が昔から気に食わないのだが、今読んでいる美術史の本で多用されているのがしんどい。魚卵じゃないんだからそんなにたくさんはらんでどうするんだ、と思う。「を持つ」「がある」「を含む」「を伴う」あたりでいくらでも代替可能であるにもかかわらず、不必要に気取った(そのくせ死んでいる)隠喩に拘泥する惰性が気に食わない。2021/07/20に書いたように、他人の言い回しの好き嫌いを云々言ってもしょうがないのだが。

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自分は「孕む」にそれほど敵対心を抱いているわけではないが、趣旨はよく理解できる。「孕む」が頻繁に現れる文章は、気取った雰囲気が醸し出されて鼻につくことがある。少なくとも自分は「孕む」よりもプレーンな味の表現を好む。(これはあくまで、ほとんど多くの場合そうするということであって、絶対的な方針ではない。)気取った表現を目にしたときには、称賛と皮肉の両方の意味で「お〜かっこいいね〜」と感じてしまう。称賛と皮肉のどちらの含みが強くなるかは、その表現が文章の他の部分にどれだけ馴染んでいるか——もっと言えば、その人の言語感覚として身体化されているか——にもよる。自分がこの「こなれ感」を演出できる、滲み出せるとはあまり思っていないので、僕は気取った表現はなるべく避けるようにしている。

とはいえ、これは論文やレポートなどの文章を書くときに注意していることであって、この日記の文章はそうした縛りには無頓着に書いている。ここは、文章表現を模索し実験するラボでもあり、クソ真面目で硬直しがちという自分の癖を柔軟にするジムでもあるからだ。

 

2022/01/21(Fri.)

昨日から相変わらず頭がざわざわして、やりたいことにも手がつかずにいる。とはいえ、観たい映画のうちサブスクではなく映画館で上映されているものは明確な期限があるので、それから片付けていくのがよい。

てなわけで、出町座で「永遠に君を愛す + 天国はまだ遠い【濱口竜介監督特集上映:言葉と乗り物】」を観てきた。後者はコロナ禍が始まったばかりくらいの頃にネットで見た覚えがある。初めて観た「永遠に君を愛す」にはスリリングかつコミカルな要素が含まれていて楽しめる作品であったが、そこまで好きではなかった。言葉のやりとりはやはり面白いのだが、最近の作品と比べると——登場人物が多いせいもあってか——映像がごちゃごちゃしているような印象を受ける。「天国はまだ遠い」の方が脚本としても映像としても面白いし、あっと思わせる仕組みもあって満足度が高い。

 

2022/01/20(Thu.)

今日は卒論の締切日で、ギリギリまで頑張っていた同期も卒論を無事出し終えたようで、皆ほっとしていた。よかったよかった。久しぶりに会えた同期もいて、昨日今日とかなり多くの人と喋った。それ自体は楽しかったのだが、疲れもした。まだまだエネルギーは枯渇気味である。

読みたい本や観たい映画がだいぶ溜まっているのだが、全然手につかない。卒論を出した後もなおバックグラウンドで頭が卒論を処理しているような感じだ。頭がざわざわして落ち着かない。

 

2022/01/19(Wed.)

序や結を急いで書き上げて、全体の誤字脱字のチェックをすることもなく、えいやっと卒論を出してしまった。途中からあまりにも苦しくなってきて、さっさと出して楽になりたいと思ったがためである。全体の出来についてはあまり納得していないのだが、ところどころで重要な議論ができたと思うし、自分で「素手で」考えた結果として、まだ掘り甲斐のある問題群を新しく見つけられたとも思う。途中から調子を完全に崩して本を読めなくなったのだが、自分の卒論に何か独創性があるのならば、それはこの不調の副産物かもしれない。

全部書いてみた後で気づいたことだが、三つか四つくらいのテーマに分けることもできそうな内容が一つの論文にごちゃっとまとめられているような印象を受ける。もちろんそれらのテーマは互いに関連しているので結局はつながるのだが、それを綺麗に切り分けたら分量としてもちょうどいい明快な論文ができる気がする。まあそれは修士の課題としましょう。

文字数は、要旨とかも含めて大体52000字くらい。自分の文章はしばしばクリアに書けてると言われるのだが、その理由の一つは多くの文字を費やしているからである。明快さを維持しつつ文字数を削れるようになりたい。これも修士の課題。

卒論を出した後に同期と会ったのだが、他の同期の卒論を少し読んでみると、やっぱり哲学って変なことをしているなと思った。生物学で卒論を書いた同期に、入不二基義さんによる〈現実性は横溢する〉ことの図式化を批判する部分を読ませたら——なぜそこを読ませたかと言えば、そこだけ読んでも理解しやすい箇所だったからだ——、ふつうに読んで理解して納得していた。ちょっと嬉しい。

 

2022/01/18(Tue.)

明後日の20日が締切だが、当日に何かあったら大変まずいので、実質的に明日19日が締切である。今日は最終章を書き上げた。

ここ最近は調子が悪いから全力で自分を甘やかして丸一日寝てたりとかしてたけど、それに比べて昨日今日は致死量の作業をしてるから頭が爆発しそうである。

 

2022/01/17(Mon.)

卒論提出まで実質的な作業できるのがあと17日と18日だけなのと、今日は比較的体調が良く午前中から動き出せたのもあって、ここ最近と比べると目覚ましい進捗を生み出した。エウダイモンな一日である。残してあったメモを補筆修正しながら再構成するという比較的負担の軽い作業ではあるのだが、難関スポットでかねてから懸念していた箇所を5700字ほど書いた。あまり上手に書けていないけれども、自分が「ここに問題があるぞ!」気づいたことの証として残しておくぜ、というノリで妥協している。これを読まされる他専門の先生はかわいそうだ。同情します。あと数段落書けばここは乗り切れる。

卒論が完成に近づけば近づくほど、締切が迫って緊張感が高まってくる一方で、卒論に対する満足度も「前よりかは」上がってきている。すると気分もいくらかマシになるので、音楽を聴くのが以前と同じくらい楽しめるようにもなってきた。最近家にいる間はずっとこれを聴いている。色気がすごい。石川紅奈さんの演奏、サブスクでも聴けるようになってほしい。

youtu.be

12月末や先週よりかは元気になってきたので喜ばしいけれど、注意したいのが、元気になったが故に卒論の中身をもっと良くしようとして、形としての完成の前に中身としての完成を目指してしまうことだ。まず形として完成させることが特にこの時期では最優先事項だとは頭ではわかっているが、こだわる自分がどうしても出てきてしまう。これは卒論だけでなく自分の生涯全体にわたる問題でもある。話が大きくなってきたので戻そう。先生曰く、もう申し分ないからあとは書き上げて無事提出してね、とのことだった。さっさと完成させたい。

 

2022/01/16(Sun.)

調子が上がらなかったが、何とかゼミ発表をした。ゼミといってもラフな進捗報告会のような場で、発表する義務も特にないのだが、やはりどんどん発表していった方がタメになる指摘をもらえるので良い。

ゼミの前にNotionで書いていた分をWordに移動させるシンプルな作業をした。これは結構めんどくさい。Notionでは傍点がつかないし、Notionの記法がWordに反映されたりしてしまう。めんどくさい。そうはいえWordに直接書くのはどうにも惨めな気分になってしまうので、Notionで書いていくのだが。Notionには普段考えていることのメモが残されていて、中には全然ちゃんとした文章になっておらず、後から読み返すと意味不明なものもあるのだが、そうしたごちゃごちゃした作業場の中で書き始めるのが心理的な抵抗が減って良い。(Notionで文章を書くときは、例えば机の上に乱雑に置かれたものを傍に追いやってかろうじてできたスペースで作業をするように、メモを改行して下に追いやってそれを横目で見ながら書いたりする。)

そうしてWordに移したところ、字数が35000字を突破していた。修論かよという感じであるが、分量だけで云々言っても仕方がない。肝心なのは中身だよ中身。

あ、そうそう、ちなみに私の名前は「じんりょう」ではない。いやまあ「じんりょう」としか読みようがないし、初対面の人に正しく名前を読んでもらえたことは一度たりともないし、そう呼ばれることに何の嫌さもないけれども、一応戸籍上は違います。高校のときから〈お前名前読めないから「じんりょう」でいいよな?〉という謎のノリで呼ばれ始めて、最初は違和感しかなかったが、いまやもう慣れてしまって自分の認識としてもこびりついている。

さらにちなんでおくと、高校の同級生の中では「ダビデ」というあだ名でも通用する。このあだ名について説明しようとすると長い話になるし、仄暗い思い出が蘇らなくもないので、ここではやめておこう。「ダビデ」と呼ばれるだけなら、それをを想起することはないので大丈夫だけれど。とはいえ、道を歩いているときとかに急に「ダビデ」と呼ばれたら高校同期がいるのかな?とびっくりするし、高校時代全体が一気に去来してかなりくすぐったいと思う。

閑話休題。高校と大学で僕を知っている人の中には、僕の本名を知っている人の方がおそらくマイノリティだろう。大学での新入生合宿のしおりでも、名前の読み仮名は「じんりょう」になっていた。

 

2022/01/14(Fri.)

昨日今日と不調が続いて何もする気が起きなかったのだが、卒論提出前最後の面談をしたり、研究室に来てた同期とおしゃべりしたりしたら、少しずつ気分が大丈夫になってきた。一時は提出が危ぶまれる感じにもなっていたが——今でももうちょっと頑張らないと完成しないのだが——、何とかなりそうで少しほっとしている。いまいち納得のいかない部分や冗長な部分があるのだが、それを刈り込んだりする気力はもうないので、最後までとりあえず書き殴って形として完成させて早く解放されたい。ところどころ重要なことが書けていると思う。

卒論は身内では読めるようにしておくけれども、今後書きたい論文の材料にするので公開はしないつもり。

新しい自転車は小径なので前よりも漕がないといけないし、スピードもそれほど出るわけではないが、小回りが効くしのんびり楽に乗れていい気分である。鍵のかけ方が変わったのでそれが少し煩わしい。

最近Twitterで主婦が大学院に行くことや「業績で殴る」のが云々とかで騒がしいが、バズった時の負の雰囲気が凝縮された感じは何とも……。とりあえず苦手である。自分は、自分が重要だと思う事柄について、自分が重要だと思う文献を率直に参照しながら、論文なり文章なりが書けたらそれでいい。

 

2022/01/13(Thu.)

頭痛がひどい。以上。

 

2022/01/11(Tue.)

一日空いて更新。前にも書いたが、日記はその日の翌日に書いているので、その日の翌日の調子が悪いと、その日の分の日記が更新されない。

今日(1/11)は低気圧のせいもあって全然起き上がることができなかった。午前中から雨が降りしきり、午後からも曇り続きであったが、僕の頭の中も空模様と同じくモヤがかかって情報が流れていかない。調子が悪いときは、頭の中を流れる情報が堰き止められて、鉛を入れられたような重さを感じる。今日は結局、簡単なメールの送信をしただけである。卒論提出日までは曇りか晴れなのでこういうことがないと信じたい。本格的に筋トレをするなどしたら低気圧でぺちゃんこになることは減るのだろうか。

あと、1/10に自転車を納車した。大学に行くのが少し楽しみになった。

出町座で濱口竜介監督作品特集が組まれている。卒論を適度に進めつつ時間を見つけて観に行きたい。『ドライブ・マイ・カー』が海外の映画賞なども続々と獲得し、再び注目が集まっている。この映画についても色々考えていることがあるので、卒論が終わったらそれを書いてもいいかもしれない(どうしようもない文章が生まれてしまったら、この日記で供養する)。

demachiza.com

 

2022/01/09(Sun.)

今朝は気分の億劫さ、怠さがひどかったが、モーニングがある時間には喫茶店に着いた(今日はスタバじゃないよ)。美味しいモーニングを食べても昼を過ぎても調子が上がってこなかったが、昼過ぎからゼミに出て無理くり発表していたら辛い寄りの大丈夫になってきた。人と話しているうちに平気になってくる今日みたいなパターンと、逆にぐったり疲れてしまうパターンがある。

最近は、気分が落ち込んでひたすら胸が苦しいというような症状は出ない一方で、頭がぼーっとしたり、何も手をつけられないくらいに面倒くさい。とりあえず図書館とかスタバに行って手を動かしているうちに少しずつ作業できるときもあるが、今日は場所の移動もスモールステップさえもやる気が起こらない日だった。何もできなかった日と呼んでも間違いではないのだが、十分に休んだ日という考え方をしたい。

自転車を買ったり、美味しい中華料理を食べたりしたことはたいへんよかった。

 

2022/01/08(Sat.)

画面に手書きした文字を自動認識する機器を使ってパスワードを入力しようとしたのだが、9と書いているのに7と認識される。十数通りの9を書いてもずっと、7、7、7。9、9、9。7、7、7。その後も永遠に9を書き続けていた。

そこで目が覚めた。7と書いていたらどうなっていたのかと思ったが、もはや夢から覚めたのであの機械で試すことはできないし、そもそもふつうパスワードをそういう風に入力することはないのだから、どうしようもない。まあ、どうだっていいけど。睡眠薬を使って眠るようになってから入眠時間や睡眠時間が変わって、時々夢を見るようになった。変な夢を見るだけならまだ害はないのだが、夢の中で哲学の議論をするときもあって、起きている間に「あれ、あの議論は夢の中で見たやつだっけ?メモ残してないっけ?」と混乱するのでやめてほしい。

寝床からは青空の三角形が見えていたのだが、何となく力が入らない。近くの喫茶店(相変わらず、どこに行っても同じスタバである)まで移動して作業し始めたのだが、座席の位置が悪かったのか、肌寒くてなかなか集中できなかった。ちょっとでも冷えるところにいると立ちどころに体の末端という末端が冷え切って、その後もなかなか温まらないし、そのうち調子が悪くなってくる。この時期だと特に、自転車に乗ってて耳が冷えると耳の奥(頭)が痛くなってきて耐えられないし、全体的に寒さに弱い。

スタバから撤退してきて家で作業しようと思っても、なかなか調子が上がってこず、体の凝りや怠さは増す一方だったので、今日は諦めた。

 

2022/01/07(Fri.)

朝の気分はそこまでだったが、日中作業を進めている間はだいぶマシだった。その調子で授業に出るなどしていたらエネルギーを使い果たしてしまった。今日は他学部やうちの修士課程の論文提出日だったのだが、研究室にいたら提出間際のゴタゴタを直接拝むことができた。学位論文提出直前のハプニングは聞いている限りでは笑い話であるが、目の前で卒業を懸けて奔走している人たちを見るのは、やはり滑稽ではありながらもゾッとするところがある。

自分はそういった形式的なところは神経質になりすぎるくらいで、間違いなく行うのが得意だったのだが、それは「だった」であって、頭がぼんやりしている今では何か抜け漏れがありそうで怖くなってくる。その一方で、締切まであとどれくらいであとどの作業をやって……みたいなことをあまり考えられないので、ちゃんと形になった恐怖感があまりない。つまるところ、現実感がないのである。

かつて締切のジレンマについてはツイートしたことがあるのだが、今では違う感想をもっている。

ジレンマの前の方が今では成り立たなくなっているからだ。最近は、締切直前の追い込みができない。自分に鞭打ってバリバリやるやり方が封じられている。体が言うことを聞かない。というか、体が言うことをちゃんと聞いてやらなかったからこんな風になってしまったのだと思う。

 

 2022/01/06(Thu.)

久しぶりの早朝覚醒。薬は十分に飲んだはずだが。昨日と同じくらいの調子。今週に入ってから、起床後しばらく布団の中でくたばっている時間が長くなっている。それと関連しているのかは知らないが、今週は曇り続きで、時々小雨もちらつく。朝起きたとき、寝床の窓から三角形の空が見えるのだが、これが白いだけで気分は2割増で悪くなる。青一色の三角形が見たいよー。

卒論の提出締切まで2週間となったが、まあ何とか最低限許せるレベルで提出できそうだ。無理せずにとりあえず完成させてしまって、早くゆっくりと休みたい。

 

2022/01/05(Wed.)

今日は割と辛めの一日であった。午前中はほとんど動けず、夕方くらいから少しずつ調子が出てくる日。午後から少し動いただけなのにヘトヘトになってしまう。人体の不思議。

以前は12月中には卒論を終わらせたい(終わらせる予定)と考えていたのに、今頃になってようやく卒論の出口が見えてきた。これはどういうことかと言うと、12月中は不調が続いてなかなか卒論を進めることができなかった一方で、より大きな要因としては、年末年始あたりから頭が冴えてきた分「これで終わり」のハードルが上げられてしまったからだと思う。体調が悪いときにこれくらいでいいやと思っていたラインが、体調が少し戻ったときにはあまりに低く感じられてしまい、結果として完成させられない——おそらくこういう次第である。

卒論はまず第一に形として完成していることが大事なのだが(出せなきゃ意味ないので)、中身としての完成を優先させてしまっている、とも言い換えられる。形としての完成は心理的な負担を軽減してくれるし、中身としての完成を目指す際に形としての完成を経由するのは有効な手段であるが、頭ではわかっていても中々実現できない。これは自らの完璧主義にもよるのだろう。

調子が悪いときにできる(すべき)ことの一つに、目の前のことに意識を向けるということがある。目の前のこととは、食事だったり運動しているときの体の動きだったり、呼吸だったりする。調子の悪いときには、いろいろなことを同時に処理しようとして頭がパンクしたりするのだが、目の前のことに集中することで、こうした頭の嵐から離れられる、というわけである(もちろん、あまりにも調子が悪いときはこれさえも封じられる)。

調子が悪いときに論文を書くのが難しいのは、少なくとも今の自分にとって、論文を書くことは複数のことを同時に処理しようとする作業だからだと思う。ちゃんとした文章を書くときには、「全体から部分への制限」と「部分から全体への制限」の両方と交渉する必要がある。こう書くと難しく感じるが、言わんとしていることは至ってシンプルで、アウトラインや序や結は各章に書くべきことに影響を与える一方で、各章に書いてあることは全体像(そして、それをコンパクトにしたものとしての序や結)に影響を与える、というだけのことだ。

私が日記をたくさん書くことを難しく感じないのも、この事情が関わっている。

 

2022/01/04(Tue.)

ぎりぎり午前中のうちに大学に到着。卒論をちょこちょこ進めて偉かったのだが、虫食い部分を埋めるような作業ばかりだったため、進捗を測れていない。

自分にとって研究の楽しさには少なくとも2種類ある。もちろん研究の楽しさはもっと沢山あるだろうし、人によっても異なるだろう。しかし、とりあえずここで取り上げたいのは、自分にとっての、2つの、楽しさ。まず1つはいわば発見の楽しさであって、もう1つはいわば構築の楽しさ。前者は一瞬の閃きのようなものから、議論を重ねていった結果として得られる洞察まで、さまざまある。後者では主に、人に見せたりできるレベルの文章を綴ることの楽しさを想定している。整理された文章として自分の考えをまとめることができるというのは、その内容に拘らず楽しいものである。

もちろん、往々にして両者の楽しみは両立するどころか互恵的だろう。一瞬のうちに閃いたことでも、構造化された息の長い文章で表現して他人に伝えたりすることはできるし、文章を書いているうちに見えてくる洞察もある。ただし、両者は常に互恵的であるわけではない。素晴らしい贈り物のように思われた着想が、文章に起こしているうちに萎んでいくこともあるし、文章を構築することによって洞察が台無しになってしまうこともある(洞察を殺してしまうかどうかは、広い意味でのレトリックを操る能力にもよりけりだろう)。

卒論もいよいよ提出日が近づいてきたのだが、構築の過程で洞察により明確な形が与えられて、それがさらに構築に影響を与えるという循環が起きつつある。だから少し楽しさも感じられるようになってきたが、とはいえエネルギーをかなり消費するので流石に一日中はできない。卒論を仕上げる段となると構築の楽しさに目を取られがちで、発見し損なってしまっている(例えば、トリヴィアルな発見をさも優れた発見かのように錯覚してしまう、あるいは反対に、優れた発見をトリヴィアルな発見かのように錯覚してしまう)かもしれなくて、それが怖いところではある。これは、周りの人に当の文章を読んでもらわないと判断できないな。

 

2022/01/03(Mon.)

京都に帰ってきた。京都は自転車でいろんなところに行けるので、自分がおっきくなった気がする。

帰ってくるときにアウトレットに寄って、欲しくて探していた紫のニットと、欲しかったが探してはいなかったロンTを買った。嬉しい。ものを買って嬉しいと感じることも嬉しい。

帰ってくることにエネルギーを使ったし、気分も億劫なので、今日も卒論はおやすみ。気分が億劫なのはまだマシで、これがもっと悪いと時間を潰すことさえも億劫に感じてしまう。そして、かなり苦しくなる。この苦しみは生々しいもので、例えば、泣く直前の胸の詰まった感じが続く(そしてそれが永遠に続くような心地がしてしまう)と言えば大体伝わるだろうか。

 

2022/01/02(Sun.)

今日は一日中横になっていた。気分の内訳は、億劫が9割、空腹が残り1割、といった具合である。昨日は卒論を2000字くらい書いたのだが、今日は何もしなかった。昨日の不調の予測が当たったのかしら。音楽を聴いたりして過ごせるので、体調がめちゃくちゃというわけではない。何かしらで時間を潰すことができるというのは、最悪の状態ではないというサインだからだ。時間を潰すことでさえ集中をどこかしらに留めておくことが必要で、本当にひどいときは頭の中に嵐が発生して集中が吹き飛ばされる。

 

2022/01/01(Sat.)

新年早々不調の予兆が感じられて不愉快だったが、とりあえず栄のスタバまで行って作業した。スタバに到着したのは昼過ぎでも、流石に元日ということもあり人が少なく落ち着いていた。13:00なのに10:00みたいな雰囲気。

しかし、確保した席の隣が梅雨時くらいベタベタしたカップルだったのが心残り。もちろんカップルには非はないので黙々と執筆するのみである。自習している近くにいちゃつくカップルがいるというのは、なんか自分にとってはあるあるな気がする。こういう場面に遭遇すると、かつて期末の混み合う図書館の自習スペースに行ったら、前の机に座っていたカップルが自習中にチューしだしたことを思い出す。(正確には、チュー中に自習しだした、と言うべきレベルだったのだが、そんなのどうでもいいか。)

家族は初詣に行ったのだが、自分は去年か一昨年くらいから初詣という行為がよくわからなくなったので行かなくなってしまった。今年も行かない予定である。明確な意志をもって俺は行かないぞ!というのではなく、単にそれをする理由(慣習によって促される以外の理由)がよくわからないので行かない、という。時々、日常に変な合理性を持ち込んで行為をやめたりすることがあって、初詣や飲酒はその例である。お酒については、飲まなくなってからちょうど一年が経つ。禁酒くらいならまだ理解できても、初詣行かないとかは理解を得にくいだろうな。ともすると、「いただきます」や「ごちそうさま」とかをまったく言わなくなり始めそうである。(さすがに人と一緒に食べている時は言うようにしているが、一人だと言ったり言わなかったりだ。)こういうことがあまりにも続くと、生活が破壊されていきそうな気もして自分でも怖い。