diary|2022/03

2022/03/31(Thu.)——同じ空を見ている

最後の勤務だった。次の業務委託先のアルバイトの面接も受けていたのだが、今回は採用見送りということになった。正直驚いたが——僕を雇わなくて誰を雇うのか、と言うと傲慢に聞こえるが、実際そうだろう——、こちらからお断りする可能性も十分にあったので、その手間を省けたしまあいいだろう。

今日が学生最後の日という同期もたくさんいる。離れた土地で彼ら彼女らが生きていることを考えると妙なエモさを感じられる。陳腐な表現だが、離れ離れになっても同じ空(月)を見ているというやつだ。

 

2022/03/30(Wed.)——卒論を読む会

来年から京大の人文系の院に行く人たちで、お互いの卒論を読んでコメントをつけるという会に参加した。自分の第一担当の論文については、どこが弱いのかがわかった上で、的確なコメントをできたという自信があるが、自分は論理学を学び直さないといけないということもよくわかった。いや、これまでも論理学は結構やってきた方なのだが、やらないとすぐに鈍るのでよくない。というか、論理学の論文や論理学を結構使う論文をちゃんと読めるようになるまで勉強した方がいい。

自分の論文はかなり長かったので、特に担当の人をつけることなく、読んでもらわなくて大丈夫ということにしていたのだが、意外と他の参加者が興味を持ってくれた。少し元気になった。ただ、僕がこの会を通して元気を得た理由は、他の人が自分の論文や研究テーマに食いついてくれたこと以外にもあり、そのことにも私は気づいているのだが、これに気づくときには後ろめたさを感じる。そのことをここに書くほど僕は勇敢じゃない。

 

2022/03/29(Tue.)——東京

28日と29日で東京に行ってきた。「ダミハン・ハースト 桜」と「ドレスデン国立古典絵画館所蔵 フェルメールと17世紀オランダ絵画展」を観に行く予定だった。しかし、後者はウェブの日時指定券が売り切れ、当日券もものすごい勢いで売り切れとなり、観られなかった。一応都美術館までは行き、図録だけ買って帰った。まあ図録の方がじっくり観れるね。そのうち大阪にも巡回してくるらしいので、またその時に行こう。

前者は、広い空間にデーンと桜シリーズが置かれ、来館者はパシャパシャ写真を撮りまくって、まさしくお花見の様相を呈していた。国立新美術館の入り口付近にも桜が植わっていて、そこでも人々が写真を撮っていたのだが、展示室もさほど変わりはなかった。実際のお花見とダミアン・ハースト桜の花見に違いを見出そうとするなら、実際の花見では、写真に収める範囲が曖昧であることが多く、桜単体で写真を撮る人が多い(自分はあまり映り込まない)のに対して、桜シリーズの場合は、人々が写真に収めようとする範囲が明確で、自分の後ろ姿と作品の全貌を写真に収めようとする人が多い。といったところだろうか。

一つだけウクライナはキーフから来ていた作品もあった。《帝国の桜 Imperial Blossom》。

 

2022/03/26(Sat.)

なんだかどんどん元気がなくなっていく。何もかもが虚しい。外は春めいていく中で、一人だけ冬に取り残されるような気分だ。Spring has come. 元気 is gone. 人と話せば話すほど、孤独が深まっていくような心地がする。その人と話す内容にもよるのかもしれないが(哲学の話ならまだ大丈夫かもしれない)。

冷え切った手を相手の首にピタッとつけておどかす──そんな戯れをしたことがある人もいるかもしれない。今の気分を比喩的に言えば、心臓にその冷たい手を当てられているような感じだ。ただ、その遊びにおいては、その冷たさに驚くのも最初だけで、あとは慣れてしまうのだが、いま僕に当てられている手はいつまでも冷たいままで、ヒヤッとするあの不快感がずっと続いている。

少し前に、部屋に丈夫な突っ張り棒を設置したので部屋干しが楽チンになったのだが、背丈より高い位置に吊しやすい場所があるというのは生活のスリルがずいぶんと増す。


2022/03/20(Sun.)——翻訳

労働のあとにまだ余力が残っていたので——というのも労働の前までずっと横になっていたからだ——、翻訳検討会に参加した。研究者が何を考えながら翻訳しているのかを知るためには、こういう会に参加するのが一番である。特に、訳文に逐一コメントを入れるタイプの人は、何を考えながら訳出しているのかがよくわかるので本当に勉強になる。翻訳ってやはり面白いと思うので、自分も翻訳をやろうと思った。贋作論の翻訳はまだ進んでいないので、どこまで需要があるのか不明であるが、やってみよう。

 

2022/03/19(Sat.)——散策・散財・散漫

三条・四条に出かけて、不要な衣類を処分したり、必要な衣類を購入したりした。自転車に乗りやすい短めのアウターで、少し肌寒いときに羽織ることのできて、さらに雨風をある程度凌げるもの、ということで、ノースフェイスのベンチャージャケットを買った。似たようなアウターがBshopでもセレクトされていたのだが、それはちょっとゆったりした作りで、前身頃も普通のファスナーだった。それよりかは、ジャストサイズかつ止水ジップの方が好き。コロナ禍になってもう二年以上の月日が経つので今更言うことでもないのだが、家で過ごす時間が増えて外出も軽いものになりつつある中で、機能的で楽な衣服を着たいという気分だ。アウトドアブランドやギア系の服装がしたくなってきた、ということである。自分はこれまでそれと反対の服装を理想としていたので、今はワードローブの過渡期であまりうまくいっていない気もするが、少しの辛抱だろう。

MoMA Design Storeにも寄り道した。品揃えが変わっているときはウキウキする。それぞれの商品はまったくバラバラの特徴をもつのだが、その中で自分好みのスタイルで一貫して商品を選りすぐるという行為がとても楽しい。店員が話しかけてこないのもベリーグッドだ(聞いたら色々教えてくれる)。MoMAは癖のある商品も多数展開する一方で、もう一つの僕の大好きなお店であるTHE(2021/12/27(Mon.)の日記を見よ)は王道をいく商品を選りすぐって展開する──こんな違いがあると気づいた。

あと、今日ではないが、双葉家具寺町店にふらっと立ち寄った(これまで頻繁に前を通っていたのだが、お店に入ったことはついぞなかった)ことをきっかけに、家具沼にハマってしまって、四六時中家具通販を見ている。お金があっという間になくなってしまう。割とまずい。デスクトレーやフラワーベースなどの小物でなんとかお茶を濁せるといいのだが、さっそくベッドの隣の小さな机替わりにartekのスツールが欲しくなってきている。大変まずい。おまけに絵も飾りたくなっている。ポスターとかでもいいが、ポスターなら裏打ちして額装したいので、絵を買うのと変わらないくらいお金がかかる。なんなら自分の作品でもいいが、作品を入れる額を使い回しにしているので、結局額を買わねばならない。超まずい。

例えば卒論提出前と比べると、比較的体調が良くなってきた。このことは日記にもよく書いているが、読み返してみると、調子の悪い時こそ自分の体調や内面に目が向きすぎていて、調子がよくなってくると、次第に自分の外にある様々なあれこれをどんどん飛び移りながら、褒めたり貶したりしていることがよくわかる。こういう日記の方が、書いている本人としても、読んでいる誰かにとっても、面白いだろう。(ただし、自分の内面を掘り下げる日記がたとえ痛々しく生々しく、ときに他人を不愉快に思わせる内容を含むとしても、それをしなければならない時はある。ある種の治療になるからだ。事実、かつての僕はそうだった。)それぞれの人々が好きなものを褒めちぎったり、嫌いなものをけちょんけちょんにしたりするのを見るとワクワクするし、それが本人から切実に生まれてくる感覚でありかつ妥当性を持っっていたなら、ワクワクを通り越してゾクゾクする。だから、好きなものや嫌いなものを率直に書いている日記を読むのは楽しいし、もちろんそのような内容の日記は、自分でも書いていて、そして読んでいて楽しい。

 

2022/03/18(Fri.)——永井WS・忘れ物

昨日(の日記)はやたら上機嫌で、僕が僕じゃなかったらちょっと心配になるくらいだ。それはさておき。

永井均先生古希記念ワークショップ——私・今・現実」を視聴した。今日は雨なのでブルーな気分・体調だったけれども、ワークショップを聞いているうちにだいぶ元気になった。体調が悪いときに(とはいえ哲学できるくらいには元気なときに)、哲学、それもとびきり抽象度が高い哲学をやると、元気になりがちだ。

夜に何をしようと思っていたのかを忘れてしまって、あれ何やろうとしてたんだっけとしばらくソワソワしていたのだが(大事な何かを忘れている気がする……)、それが夕食であることを空腹が教えてくれた。同じように、出かけようとしたときにふと心がざわざわするときがあり、この場合、ほとんど常に、私は忘れ物をしているし、そして実際に忘れ物をする。連戦連敗で、忘れ物を防ぐことはできない。ざわざわが消えて思い出したときには、ほとんど常に、忘れ物を防げず先に進んでしまっていることに気づく。

 

2022/03/17(Thu.)——なん読・剪定

夜、第17回のなん読(分析美学の文献をなんでも読む会)だった。レジュメ担当は私だ。ここ最近調子が悪かったり気が向かなかったりで、ギリ(間に合わなかった)だった。去年の11月くらいから腰を据えてじっくり文章を読むことができなくなっていて、レジュメも取り組む前は不安だったけれど、一応はなんとかなった。一応はね。

今日はそのギリギリのレジュメをなんとか完成させるべく、頑張って早い時間帯に大学に赴いて、バリバリと作業を進めた。一日にこんなに文章を読んでその内容をまとめる作業をしたのはだいぶ久方ぶりだ。ただ、これはずっと以前からそうなのだが、自分は本の内容を簡潔にまとめる能力がないのでは、と思っていて、論文を書く際にも、取り上げる相手の見解を詳しく説明しすぎてしまうことがある。もちろん、そのこと自体はチャリタブルな批判を行う上で重要だし、自分で考える分には損することはない。ただ、それを論文などの形で相手に説明するという場合には、その時々に応じて然るべき粒度にまとめられるといいだろう。

いつの間にか真面目な反省をしてしまった。勉強したり研究したりするのはやはり楽しいものだし、まだ楽しいと感じられる能力がなくなっていないことは、寿ぐべきことだ。勉強会でひたすらしゃべって喉が若干ヒリヒリしているのも、悪くない。悪くないなと思う。

花粉は辛いけれども、外はすっかり春めいて、植物たちもむくむく起き上がってきていい気分だ。あらゆるものに、よっ!と挨拶したくなる陽気さ。重たいコートを脱いだせいか、道ゆくひとびとも以前より数センチ浮き上がっているように見える。

大学に到着したとき、大学のそこかしこに生えている木が剪定されていた。時計台周りの松はしばしばそれらしい業者の人が丁寧に整えているのを見るが、例えば、吉田南——時計台のある吉田キャンパスの南、東一条通を一本はさんだキャンパスで、全学共通科目の履修生や総人・人環関係者がよくいる。建物が下品で情けない——の剪定はめちゃくちゃ雑で、枝を切ればいいんだろ!はいはい!ほらこれでいいだろもう!!というやっつけ仕事に見える。ただ、その樹の足元に、枝たちがおんなじような長さに揃えられてゴロゴロと積んである様は、もの珍しくて、すこしうれしい。手頃なのを一本見繕ってベランダにでも置いておきたい。

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ゴロゴロ

 

2022/03/16(Wed.)——月・病院・薬局

昼ごろまで布団にしっかり収まっていたのだが、流石に勉強会の担当をぶっちするわけにもいかないので、気合いで起床して勉強し始めたら少しずつ元気になってきた。

以前通院していたクリニックがなくなるのだが、今日は次のクリニックの初診のために出かけた。5時でもだいぶ明るいのだが、こういう夜空でない空に月が出ていると非常にいい気分になる。月が綺麗ですね——リテラルな意味でこう言いたいのだが、その意味は文豪に強奪されてしまう。月が綺麗な度に盗まれてしまって、悲しい思いをしている。

新しいクリニックは初診だったのもあって、予診を含めて診察に到達するまでに1.5時間ほどかかった。少し勉強して出てきた元気もそこで一気に吸われてしまった。空気が乾燥気味でお水を持ってくるのも忘れてしまったので、相当辛かった。どんどん気分が悪くなっていったので、やはり病院の待合室のウォーターサーバーは重要だ。普段は全然使わないのに、ここぞというときに、ない。チラッと見る限りはなさそうだったけど、トイレの手前の死角にあったのかもしれない。次はチェックしてみよう。今回は初診ということで時間がかかったが、次からはもっと早く案内してもらえるらしい。思うのだが、病院はだいたいは調子の悪い人間(や動物)が行くものだが、調子の悪い人間(や動物)にとっては病院に行くこと自体がすでに凄いことで、待合室で何十分も待つなんて、こちらがお金をもらってもいいくらいだ。

かつてのクリニックの薬は院内処方だったのだが、今度のは院外処方なのが煩わしい。それだけならまだいいのだが、そのクリニックの最寄りの調剤薬局がちょっと胡散臭くて、うーん。こじんまりとしていて外装が黒、表にはOPENのネオンサイン。この時点で、ちょっと大丈夫かな…となっていたのだが、中には漫画が置いてあって、そのチョイスが進撃の巨人とかテラフォーマーズで——いや漫画自体には何の恨みもない(むしろ好き)のだが——薬局としてはどうよ、と思ってしまった。というか、調剤薬局で漫画とか見たことない気がする。田舎の小さいクリニックならまだわかるが、薬の処方を待つ間に漫画を読む時間などないだろう。あと、携帯電話の使用禁止や手洗い奨励の英語のポップなサインが貼られていて、ここの人はどんな趣味をしているのか不思議だった。とどめに、調剤師の装いが、白衣を着ていない、金髪、シルバーのジップがついた黒のロンT、その胸元にクロムハーツ的なシルバーネックレスがチラチラ、という次第だった。もはや驚きもしません。むべなるかな。薬の処方自体は至ってスムーズだった。

 

2022/03/15(Tue.)

前の日記で最近は映画観れるという話をしたが、それもできない一日だった。アニメとかドラマ一話分を見通すことも難しい。

 

2022/03/13(Sun.)——追いコン

追いコンなるものに参加した。一応入っていて、普段の練習などには参加しないが、家で制作して時々展覧会に出したり打ち上げには顔を出したりしていたサークルなのだが、三回生のコロナが猛威を奮い始めたあたりからまったくコミットしていなかった。だから、「ご卒業おめでとうございます!」が全然現実味がなくて、夢を見ているかのようだった。サークルに参加してサークル部屋でだべったりしたあの日々も、もう全然輪郭がぼやけてよく思い出せない。

僕はそこまで熱心にサークルに参加していたわけではないのだが(しかし制作は熱心にしていた)、篆刻をちゃんとやっている人は珍しいので、後輩にも一応は覚えてもらってるみたいだ。あー、あの篆刻の人ね、という形で。篆刻のおかげで、後輩たちがメッセージカードを書く苦労が減っていればいいなと思う。

メッセージカードを含め花やアルバムをもらった。活動していた頃の記憶が定かでないので、なんの理由もないのに突然花を渡された人みたいになって、変な気持ちになった。しかし、アルバムは確かに、他ならぬ自分がこのサークルに所属して、少ないながらもある程度の役割を務め、そのとき所属していた他のメンバーと活動していたことを示していた。とはいえ、やはり夢の出来事というか、正直今朝見た夢の方がリアルなくらいだ。他校の友人の卒業アルバムを眺めると同じような感興を催すのだろうか。

 

2022/03/12(Sat.)——展覧会(続)

ワクチンの副反応の残滓に苦しめられている。最近は映画を観るくらいの能力は復活したのだが、論文を読んだりするのが億劫だ。何か読書会とかで無理矢理恒常的に読むリズムを生み出した方がいいのか。それともそうしたノルマが負担となって余計に具合が悪くなってしまわないか。ぼーっとしているうちに今日も陽が落ちる。3月に入ったばかりの頃は、「世の中に暇つぶしが多すぎる……どれをやっていこうかな〜」くらいの気概があったのだが、もうすでにわりとどうでもいい。かつての自分の考えを再掲しておこう。

前回の03/08の日記に書いた展覧会について、少し記しておこう。『ゴッホ展』では、アルルに移ってからの作品がやはり見応えがあった。しかし、それより前のオランダ時代の素描をたくさん観れたのも貴重だったかもしれない。素描の途中から量感(体の膨らみ)の表現が巧みになっていく様が窺えたのも、結構面白かった。あと、ルドンの《キュクロプス》も直接見れてよかった。これまでは「一つ目の巨人だー」くらいの印象しかなかったのだが、ポリュペーモスの手前の紫や、ガラテイアの周りの植物の色合いがかなり派手派手しいことがわかった。糸杉も見れてよかったのだが、特に《花咲くマロニエの木》が気に入った。手前のバサバサした葉をつける木とは対照的に、奥の木はかなりプリプリしている。『ゴッホ展』のキャプションは「抽象的」やら「精神性」、「哲学的」といった用語がちょくちょく使われていて、こういう表現されるとよくわからないなあといつも思う。

『ミニマル/コンセプチュアル』では、冒頭のカール・アンドレやソル・ルウィットなどは楽しく見れたのだが、それより後が正直あまり楽しくなかった。それと、ルウィットの《ストラクチャー(正方形として1、2、3、4、5)》は——これは一辺が1から5の木組みの立方体を連ねたような作品なのだが——、一辺が4の立方体と5の立方体がちゃんと繋がっておらず、ダボが見えていてかなりがっかりした。あーあ。

風がぬるくなってきた。くすぐったい。

 

2022/03/08(Sun.)——ワクチンと展覧会

3rdワクチンを地元で打った。ワクチン当日であれば動けるので、名古屋市美術館の『ゴッホ展──響きあう魂 ヘラーネとフィンセント』と、愛知県美術館の『ミニマル/コンセプチュアル──ドロテ&コンラート・フィッシャーと1960-70年代美術』を観た。

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2022/03/05(Sat.)——『スカイライト』

UPLINK京都で『NTLive スカイライト』を観た。

 

2022/03/04(Fri.)——『さがす』

UPLINK京都で『さがす』を観た。『岬の兄妹』の片山慎三監督の長編二作目、商業デビュー作だ。『岬の兄妹』は今ならアマゾンプライムで観れるので是非。貧困の描き方があまりにリアルで辛いので、元気がない人にはオススメできないが。以下ネタバレ注意。

『岬の兄妹』の衝撃を踏まえて観てしまうと、『さがす』はちょっとパンチに欠けるところがある。もちろん全体としてはよかったんだけど。

清水尋也演じる指名手配犯の名無し/山内照巳のキャラクターをもう少しうまいことできなかったか……いや最初の方は謎めいた雰囲気でよかったのだが、動かない(死んだ)人でしか抜けないという困った性癖キャラで行くのか、死にたがってる人を死なせてあげましょうという困った正義感キャラで行くのか、どっちかに絞った方がキャラがたってよかったかもしれない。これでは一方が他方を弱めてしまってはいないだろうか。(後者は陳腐なので前者がいいと思う)。結局山内は何がしたいねん?と腑に落ちないままハンマーで撲殺されてしまった。山内はそういうフワフワキャラなんですよ、ということかもしれないが、だったその掴めなさをもう少し説明してもよかったかもしれない。

あと、花山豊(原田楓の父探しを手伝う同級生)は大した仕事もしないし、楓について回るばかりで、楓のおっぱいを見た(そして触ろうとした)以外に何してたか記憶にない。

ストーリーは最初に父の失踪から始まり、時間を遡るようにしてネタバラシして、事件をひと段落させてから、その事後処理がどうなったかを観ていく──このような構成になっている。この事後処理の部分がわりと長くてちょっとだるいのだが、もう一つの「さがす」の意味を込めるために必要な部分ではあった思う。いろいろ悪い部分を言ったが、個々のシーンのリアルな気味悪さや惨めさは、片山監督じゃないとなかなか観れないものだと思うので、楽しかったしこれからも楽しみ。

 

2022/03/03(Thu.)——『フォリーズ』と『ソーホー』

UPLINK京都で『NTLive フォリーズ』を、出町座で『ラスト・ナイト・イン・ソーホー』を観た。さらにはバイトの代勤まで行ってしまった。(これら二作品についてはネタバレするかもなので注意。)

『フォリーズ』は、冒頭はあまり集中して観ることができなかった。昼すぎで体調があまりよくなかったのと、隣の人が頻繁に動くタイプで座席の揺れが伝わってきたのと、冒頭に登場するキャラが多いのとが、理由として考えられる。タップダンスの辺りからは調子が出てきて、ラブランドからの4人がそれぞれ演じる場面はかなりよかった。というか、結局4人を主に取り上げるなら、他の人も出てきてわちゃわちゃする冒頭部分は余計なのかもしれない。とはいえ──保険をかけるが──ミュージカルはあまり観ないのでわからない。

『ラスト・ナイト・イン・ソーホー』は衣装や音楽は素敵だったのだが、ストーリーが微妙だった。細かいネタバラシや実はこうでした〜的な展開が大仰でわざとらしい。最後のハッピーエンドもとってつけたようなもので、全然説得力がなかった。ホラー要素も、でっかい音出して「わ!!!びっくりした?ねえびっくりした??」みたいな感じで、怖いけど腹が立った。のっぺらぼうが襲ってきてワーみたいな展開を減らして、もっとあの手この手で怖がらせて欲しい。最初のサンディに入れ替わる場面などは美しいと思ったが、細かい伏線回収に躍起になるあまり、整合性が取れなくなったり(最後の殺された男たちの「助けて!」とかは、サンディの暴力性を反映するものだと思うが、むしろ男たちのほうが暴力的だし、そいつらに「助けて!」とか言われても「うっせえわ」としかならん)、でかい筋(統合失調症の症状やパブでのひどい扱い)を見失ってしまったのかな、と思う。

統合失調症に詳しければ、あるいはネオンの点滅パターンを詳しく調べれば、もっと面白く観れるかもしれないが。例えば、エリーの部屋に入ってくるネオンはいつもは青赤白の三色で点滅するが、危険が迫っている時などは赤白の二色になるとか。うーん。やっぱり、だからなに?と言われればそれまでの話かもしれない。

もう少し褒めておこう。アニャ・テイラー=ジョイという楽しそうな名前の俳優が演じたサンディはとても魅力的だった。アニャは目が外側に寄って離れているせいか、かなり印象的な顔だと思う。目と口からなる逆三角形が目を引くと言えばいいのだろうか。『ラスト・ナイト・イン・ソーホー』では、さらに目尻がメイクで強調されていたので、この三角形がすごいことになっていた。アニャはハリウッドマリオのピーチ姫もやるらしい。清楚な感じに寄せてくるのか、それともイケイケな感じに飛ばすのか楽しみだ。

 

2022/03/01(Tue.)——戦争とマーガリン入りロールパン

低気圧のせいで頭がぼーっとしてかなり辛かった。低気圧のせいか否かにかかわらず、ここ最近の調子の悪さは頭に鉛が詰められて情報が滞留するようなやつだ。気分がひどく落ち込む、ということは減ってきた。食欲はあまりない。

14時ごろにようやく起き出して、入学手続きの書類を出すために大学に行った。道中で入学料を振り込もうとしたのだが、銀行に着いたのが15:30だったので振り込みできなかった。銀行窓口って15時に閉まるんですね。世間知らずは生きづらい。そして、玉突き事故の要領で、入学手続きもできなかった。大学に向かうころがちょうど一番雨が強かったが、ミサイルが降ってくるよりはまだ安全だと言い聞かせた。

燃料気化爆弾を使った(らしい)り、核をチラつかせたりと、軍事侵攻してる時点ですでに印象最悪なロシアが大暴れしている。戦争に関わる映像や情報が入ってくるのでテレビを見ると悲しい気分になってしまう。中学や高校で安保理について勉強したときに、「常任理事国がイイヤツじゃなくて、わがまま言って拒否権発動したら実効性皆無になるのやばいなあ(とはいえ、権限がデカいからそれくらい厳しくないとダメか、いずれにせよ常任理事国の責任重大だなあ)」と考えたりしたが、その懸念が現実化するとは……国際的に軍備増強に向かったりも全然ありうるし、ほんとうに大変なことになってしまった。

私はマーガリンが嫌いである。とりわけ、固形の状態のマーガリンが。家でトーストを食べるときは固形のそれを口に入れる必要はないのだが、コンビニやスーパーで買うロールパンにマーガリンが注入されているともう参ってしまう。

五百歩譲ってシンプルなバターロールにマーガリンが入っているのなら理解できる。バターロールの単純な味に満足できない人はマーガリンを欲するだろう。しかし、レーズンロールなどにマーガリンを入れることは禁忌である。レーズンロールには味があるではないか!レーズンの味が!これはレーズンに対する冒涜ではないのか!

それに、そもそも注入されているマーガリンが多すぎるのではないか?健康にも悪いし、大して美味しくもないマーガリンを入れることになんの意味があるのか!ロールパンのマーガリンはおにぎりの具材とはぜんぜん違っている。おにぎりを食べるとき、一口目では具に到達できず(早く具と一緒にご飯を食べたい!)、二口目で具材に到達したら「当たりだ!ハーモニー!」と思うが、一方でロールパンではマーガリンに到達できない一口目が最も幸福である(当たりだ!)。しかし、幸福は長くは続かない……二口目からは、ハズレマーガリンが闖入してくる。

ここで、「いや、マーガリンはパサパサのパンを食べやすくするために役立っているのだ」と擁護する手合いがいるかもしれないが、ナンセンス!これは筋が悪い。これは単にパンのまずさを誤魔化しているだけで、そうした誤魔化しをする暇があるならしっとりしたパンを作れという話だ。

少々熱くなってしまったが、私が言いたいのはこういうことだ。つまり、ロールパンにマーガリンを入れていいのは、ロールパンを食べる我々だけであって、向こうが勝手に入れてはならない。マーガリンの注入は我々の自由意志に委ねられるべきである。どうしてもマーガリン入りで食いたいやつは、小さい袋に入ったマーガリンでも持ち歩けばいい(給食で時々出たアレを思い出せ)。なんならチョコでもジャムでも好きな袋入り調味料を持ち歩けばいい。好きにしろ。お前は自由だ。あるいは、スーパーが親切ならば、そうした袋マーガリンを別売りすればいいし、パン会社が袋マーガリンをロールパンにはっつけて売るのもいい。マーガリンつけたいやつは自分でつけて、マーガリンつけたくないやつはそれを外して捨てる。それか、これじゃマーガリンが足りないよ……とうなだれるやつに分ける——これで平和が実現される。