Levinson, Jerrold. 1980. “Autographic and Allographic Art Revisited.” まとめ

第6回分析美学の読書会(現:分析美学の文献をなんでも読む会(#なん読))で扱った、次の文献のレジュメを公開します。

Levinson, Jerrold. 1980. “Autographic and Allographic Art Revisited.” Philosophical Studies 38: 367-83.

こちらのNotionのリンクからどうぞ。

www.notion.so

 

文献について

ネルソン・グッドマンが『芸術の言語』で打ち出したオートグラフィック/アログラフィックの区別を洗練させていく、というのがこの論文の主な仕事です。その過程で、芸術作品の存在論——音楽作品と文学作品は、純粋な構造ではなく指し示された構造である——や、音楽作品と文学作品の贋作、贋作の区別——指示的贋作と創作的贋作——など、興味深い論点が複数登場しています。

 

コメント

贋作論周辺の訳として気になる点が二つあるので記しておきます。

 

ネルソン・グッドマン『芸術の言語』第3章第3節の訳について

レヴィンソンの論文を読んで、グッドマンが『芸術の言語』において、オートグラフィック/アログラフィックの定義を最初に明示的に記述する箇所の邦訳で、注意すべき箇所を見つけました。原文と邦訳と載せておきます。

Let us speak of a work of art as autographic if and only if the distinction of between original and forgery of it is significant; or better, if and only if even the most exact duplication of it does not thereby count as genuine. (Goodman 1976, 113; 太字引用者)

ある芸術作品について、そのオリジナルとその贋作の区別が重要であるとき、かつそのときにかぎり、その作品をオートグラフィックautographicであると呼ぶ。より適切にいえば、ある芸術作品がオートグラフィックであるのは、その作品の最も正確な複製であっても本物だと見なされないとき、またそのときにかぎる。(邦訳134; 下線は原文の傍点)

レヴィンソンは、引用中太字で示した“it”について「その作品あるいはその(本物の)実例」と理解すべきだと指摘しています。というのも、レヴィンソン曰く、グッドマンはこの定義を、音楽や文学といった芸術と、絵画や彫像彫刻といった芸術の双方に適用可能なものとみなしているからです。芸術作品の存在論のよくある理解では、音楽や文学では、演奏や冊子は作品そのものではなく作品の事例である一方で、絵画や彫像彫刻では、ある物理的対象(事例)は作品そのものだと想定されます。これを踏まえて言えば、グッドマンの"the most exact duplication of it"という表現は、音楽や文学では演奏や冊子の複製、あるいは絵画では(しばしば作品と同一視される)キャンバスの複製ということを意味している——、これがレヴィンソンの指摘するところだと考えられます。これは全く正しい指摘です。

ごちゃごちゃと書きましたが、結局のところは、“the most exact duplication of it”という部分は——どう訳すはさておいて少なくとも意味内容としては——「その作品あるいはその(本物の)実例の、最も正確な複製」と理解すべきだ、ということです。しかし、当該箇所の邦訳は「その作品の最も正確な複製」となっているため、音楽作品や文学作品の複製を考える際に混乱が生じるかもしれません。というのも、音楽作品や文学作品それ自体の複製は、音楽作品や文学作品が抽象的な存在者である以上、不可能だからです。音楽作品や文学作品について、ここで言われているのはむしろ、音楽作品や文学作品の事例の複製のことでしょう。なんとなく読んで意味がわかったように思える箇所なのですが——事実私もそうでしたし、これによる実害はあまり大きくないのですが——、厳密に考えてみると原文においても"it"が不明瞭なので、注意されたいです。

 

‘referential forgery’と‘inventive forgery’の訳語について

もう一つのコメントは、レヴィンソンが指摘する贋作の種類の訳語についてです。一つ目の『芸術の言語』の邦訳についてのコメントと比べると、こちらの方がより重要です。

referential forgery’と‘inventive forgery’はそれぞれ、「実物参照的な贋作」「創意に富んだ贋作」と訳されることがしばしばあります。そもそも邦語で書かれた(いわゆる分析系の)贋作論は少ないのですが、例えば、清塚(2014)や西條(2021)はこの訳語を採用しています。しかし、この訳語の選択は——特に後者の「創意に富んだ贋作」は——問題含みだと思います。私は、それぞれ「指示的贋作」と「創作的贋作」と訳すようにしていますが、それはこちらの方が問題が少ないからです。

まず、‘referential forgery’について。「実物参照的な」という訳語では、参照するのは実物以外にありえないのだから「実物」は省いても構わないのではないかと思います(ここを省略するかどうかは好みや訳の方針によるかもしれません)。そこで「参照的(な)贋作」という訳語の候補も得られますが、これは少しばかり問題があります。なぜなら、‘referential forgery’以外の贋作にも、本物をある意味で参照して——例えばスタイルを模倣するなどして——制作された贋作があるからです。レヴィンソン自身は、「referential forgeryでは、贋作元となるwhich the fogery is of(したがって、緩い意味で、贋作が指示するrefer to)何らかの本物の作品が常に存在する」(Levinson 1980, 377)と述べています。このニュアンスをそのまま生かして、「指示的贋作」と訳すのがよいと私は考えています。直訳的ですが、むしろ誤解が少ないのではないでしょうか。とはいえ、「参照的贋作」と訳すのもわからないではないです。(「実物参照的な贋作」という訳語は、‘inventive forgery’について私が採用する訳語と対になっている様を損なうので、少なくとも私は使いません。)

一方で、‘inventive forgery’を「創意に富んだ贋作」と訳す気持ちは、私にはほとんどわかりません。そもそも、レヴィンソンによれば、存在しない作品や存在しない制作者のオリジナルであると偽る贋作が、 ‘inventive forgery’だと言われます(Levinson 1980,377)。ここでは、新しい思いつきや独創性などを含意する「創意」については何も述べられていません。ましてや、「創意に富ん」でいることも ‘inventive forgery’の説明には不要です。実際、ある画家の(ある作品事例ではなく)スタイルを完全に模倣して新たな作品を制作し、その画家によるものだと詐称するとき、これは‘inventive forgery’と言えるでしょうが、この贋作自体は全く創意に富んでいません。そのため、私としては「創作的贋作」と訳すようにしています。「創作」の意味合いによっては、この訳語も問題含みなものになる可能性がありますが、とはいえ、「創意」を含む訳語はそれ以上に明らかに問題含みでしょう。そもそも、創作的贋作は、指示するオリジナルが存在しないような「新しい」作品を制作するという意味で‘inventive’なのであって、新しいあるいは独創的なアイデア(「意」)をもつという意味で‘inventive’なのではありません。

 

参考文献

  • Goodman, Nelson. 1976. Languages of Art: An Approach to a Theory of Symbols. 2nd edition. Indianapolis: Hackett Publishing Company. (『芸術の言語』. 戸澤義夫・松永伸司(訳). 慶應義塾大学出版会. 2017.)
  • Levinson, Jerrold. 1980. “Autographic and Allographic Art Revisited.” Philosophical Studies 38: 367–83.
  • 清塚邦彦. 2014. 「ネルソン・グッドマンの贋作論 : 『芸術の言語』第3章の分析」. 『山形大学紀要(人文科学)』 18(1): 1-39.
  • 西條玲奈. 2021. 「N.グッドマンの贋作論と芸術家のスタイル」. ART RESEARCH ONLINE 2021年2月号. https://www.artresearchonline.com/issue-5a(参照2021年4月19日).