2021/11

2021/11/30(Tue.)

労働が大変険しい一日だった。険しい。

 

2021/11/29(Mon.)

2021/11/27の宣言通り、『現代思想』を買った。今日は一日中頭がぼうっとしていたので読み進めるのが辛かったのだが、とりあえず、人環——正しくは人・環らしい——の教員陣の論考を読んだ。今号の『現代思想』は他にも人環関係者が多く(例えば、先輩の山名諒さんや、もっと先輩でありかつOBの山口尚さん)、いつもより身近に感じられる。僕の場合、話したことがある人の文章はその人の声で再生される。

まず、青山拓央さんの「日本(語)で哲学をするということ——大森荘蔵細野晴臣」について。以前、山口尚さんが「J-PHILとは何か——日本哲学の新しい潮流についての政治的-詩的論考」という論考(これも『現代思想』所収である)において、J-POPとJ-PHILの比較をされていたが、青山さんの論考もこの関心に連なるものだ。J-POPとJ-PHILの比較を、細野晴臣大森荘蔵という具体的な人物に焦点を当てて展開する——そんな論考である。山口さんの論考やnoteで見られる日本の分析哲学に対する批判は、その一見したところの党派的な印象から、「分析哲学」の護教論に勤しむ論者から過敏な敵対反応を受けているように見える(僕にはむしろこちらの方が党派的に映るが、ひとまずそれは措いておこう)。とはいえ、山口さんのJ-PHIL考は「多様性の尊重」という穏当な主張として読むことができるし、実際のところそういう主張なのだと僕は思っている。青山さんの論考はこうした穏当さに基づいたものなので、J-PHIL考に対して条件反射的な拒否反応が出てしまう人がもしいるならば、これで頭を冷やしてほしい。

青山さんが10年の歳月をかけて書いた『時間と自由意志——自由は存在するか』でのスタイルについても少し論じられていた。この本は増刷されることが決定したのだが、いつ増刷されるのだろう。その暁には読書会を開催したいと思っている。

閑話休題。『現代思想』に戻ろう。もう一つは戸田剛史さんの「大森哲学と◯◯論という問い」について。僕が読めていない可能性ももちろんあるのだが、全体の主張は理解できても、それを支える(はずの)個々の議論をよく理解することができなかった。全体の主張は、〈大森哲学(立ち現れ一元論)を単なる実在論や単なる観念論に回収することは困難だ〉ということであり、そのために、個々の節で大森やバークリについて、他の論者とも比較しながらあの手この手で雑想的に論じられている。

戸田さんの論考についてはコメントが二つ。まず一つ目に、戸田さんは大森が犬が好きなのではないかと想像しているが、この点をもう少し敷衍して欲しかった。

そしてもう一つ僕のさらに勝手な想像の話をしよう。大森先生は、犬が好きなのではないかと思ったと書いた。希望的観測だが、犬が好きで、犬と心の交流をしていたのではないか。そういう動物との心の交流と、もっと大きな世界との心の交流は相通じるものがあるように思う。(202)

戸田先生としては勝手な想像の話をしているだけなのでそんなこと求められても困るかもしれないが、一読者としては勝手な想像の話だけされても困る、というのが正直なところだ。

コメントの二つ目は、戸田先生がこの論考の執筆を引き受けた後悔に関するものだ。戸田さんの後悔は次。

書くことを引き受けた後、『物と心』の続きを読んでいてとんでもないことがわかった。最後の解説のところで、身近な同僚である青山さんが解説を書いていることを知ったのだ。身近に大森哲学の解説を書いているような人がいることを知っていたならば、僕はこの仕事を引き受けなかった。それが僕の後悔だ。あとなんだが気が重いので、青山さんの解説はまだ読んでいない。(202)

特に最後の一文は驚くべきことである。青山さんのこの解説が「立ち現われ論は観念論か」という表題を掲げ、〈いかにして立ち現われ論が観念論として誤解されるのか〉を論じていること、そして、戸田さんが〈大森哲学を◯◯論——この◯◯には「実在」や「観念」が入る——だとすっぱり分類することにはあまり意味がない〉と論じていることに鑑みれば、青山さんの解説は参照すべきだったのではないかと思われるからだ。

 

2021/11/28(Sun.)

サカナクションのオンラインライブ「SAKANAQUARIUM アダプト ONLINE」を観た。リアルタイムのライブはすでに先週開催されていて、アーカイブを滑り込みで視聴したのだった。かねてから音にきくサカナクションのライブには行ってみたかったのだが、規模のデカすぎるライブは苦手(食わず嫌い)なので二の足を踏んでいた。それに、サカナクションめちゃくちゃ好きというわけでもなかったし(好きではある)。そこで、オンラインライブなら気軽に観れるしええやんとなって観てみた(立たなくていいから腰も痛くないしね!)。

sakanaction.jp

youtu.be

で、これが非常に良かった。これまでに視聴したオンラインライブの中で一番クオリティと満足度が高い。演奏はもちろんだが、映像や演技も含めて演出の手が混んでいて感心した。アダプトタワーとかいう珍妙なセットが、演出に奥行きをもたらしていた。いつものライブ的なステージに切り替わった後でも、後ろに変てこな建造物があるだけでなんか雰囲気出るしね。個人的にはアダプトタワーの演出のストイシズム?がとても好きなので、ステージ切り替えなしで2時間アダプトタワーでも全然観れるだろうなと思う。

このライブでフルが初披露となった「月の椀」という新曲についても一言。こちらはトヨタの「YARIS CROSS」のCMに書き下ろされた曲で、「気になりだす 気になりだす」から始まるサビがなんともイヤーワーム。気になる曲だ(気になりだす!)。この曲のチャキチャキしたギターが好き(ポルカドットスティングレイみたいなチャキチャキすぎるのは苦手だが)。歌詞にもサカナクションの文学的感覚が遺憾無く発揮されている。サビの合いの手が1番は「ツキノバン」であるのに、2番(ラスサビ)は「ツキノワン」になっているところが、曲の解釈のポイントになる気がする。

youtu.be

サカナクションのメンバー5人が横一列に並んでいるときのあの無敵感は一体なんなんだろう。宇宙人の侵略くらいなら食い止められるんじゃないか。

 

2021/11/27(Sat.)

研究会に出た。いつもながら楽しい。「素手で」哲学をするということを考えた。とはいえ、これは不意に私の口をついて出た表現であって、明確に説明することは難しいのだが。というか、自作概念なので何を説明したら明確になるのかがそもそも明らかでない——手がかりになるのはおそらくシックリ感でしかないだろう。さしあたり具体的に言えば、大森荘蔵は「素手」の哲学をものした一人と言える。あと、山口尚さんの日本の分析哲学に対するコメントにも関連する。

note.com

研究会のSlackに記した「素手哲学」についての疑問を転記しておく。

素手で哲学する」とはいかなることか。一般的な定式化(ができるとしたら、それ)はどのようなものになるか。具体的には誰が素手哲学者なのか。

「実際に素手である」ことと「素手感がある」ことには差異があるのか。あるとしたらどのような差異なのか。(「実際に素手である」「素手感がある」を構成するような特徴には、それぞれどのようなものがあるか。)

今日はその大森荘蔵を特集した『現代思想』の発売日で、さっそくルネに向かったのだがお休みだったので買えなかった(棚卸し日という罠である)。この号の青山拓央さんの論考「日本(語)で哲学をするということ——大森荘蔵細野晴臣」も、素手哲学を考察する上でヒントになるだろう。月曜日に買う。

www.seidosha.co.jp

 

 

2021/11/26(Fri.)

先週末から今週の半ばまで、それはもう最悪の気分だったが比較的ましになってきた。鉛のように重かった体が、今はステンレスくらいに感じる。それでもステンレスくらいは重いということだ。この症状には波がある。下の下から下の上まで、低いところを漂う波だ。涙😢

職場の皆様にもご迷惑をおかけした(している、するだろう)が、親切にしてくださってありがたい限りです。

本日発売のとある本(『転んでもいい主義のあゆみ——日本のプラグマティズム入門』)が欲しかったから——この間は本を読むどころか見るのも嫌だったのを考えれば偉大な進歩である——ルネに行ってきた。売り場に平置きされているだろうと思って探してみたが見当たらなかったので、店員さんに尋ねてみたら裏から出してくれた——ちょうど並べようとしていたところだったのかな。すいません。で、「サイン本の方がいいですかね?」と、サイン本をもらってしまった。

filmart.co.jp