diary|2021/12

2021/12/31(Fri.)

今日も栄のスタバに来た。作業が進んで気分も楽になる、あるいは気分が楽だから作業が進む——そんな具合で卒論を2000字ほど書き進めた。家に帰ってからもうちょっと書けるかもしれない。昨日からなんだか調子がよくて嬉しい。12/09の日記にも書いたけど、元気だった頃ってこんな感じだったかなと思い出すような日だ。

15時くらいになって突然スタバが混み始めて、集中も切れたので、そそくさと帰った。スタバ作業は捗るので毎日やりたいが、毎日やると地味に出費が嵩むのが問題だ。あと、お店が混みだすと、自分ずっと居てるけどいいのかな……と不安でたまらなくなるので、なんだかんだ居心地が悪くなってしまう。実際は1、2時間くらいなのでそこまで問題ではないのだろうけど。

晦日にはテレビ何観る? というのは年末の定番の話題であるが、僕は普段はガキ使である。ただ、今年のガキ使の代打番組はお金をかけてるだけでテンポが悪く全然面白くなかったので紅白を観ることした。最初に司会の大泉洋が「今年の紅白のテーマは“COLORFUL”です!」と言ったときは流石に頭がバグってしまった。紅白はどう考えてもバイカラーだろうが。あと、大泉洋はアーティストよりも前に出てくる感じが普通に気に食わなかった。目立ちたがりな感じな印象を受けてしまう。

あと、今日は誕生日だった。誕生日とは言いつつも、そこで祝福されているのは誕生というよりもむしろ生存のことだ。そうはいえ、生存しているということは誕生したことを常に必ず伴うので(あれ、死んでいることも誕生したことを常に必ず伴うか……)、生存と誕生はセットで祝福される感覚もある。ちょっと自分でも何書いてんのかわからんくなってきた。

親切な石油王が僕の日記を見ているかもしれないから、欲しいものリストを貼っておく。

www.amazon.jp

 

2021/12/30(Thu.)

午前中から動き出して昼前に栄——栄とは名古屋から少し東に行った繁華街である——のスタバに到達することができた。そこからは場の圧力なるものに押されて卒論を進めることができた。2800字ほど。なかなかいいんじゃないか。この調子に乗って、明日も栄まで来てスタバ作業してもいいかもしれない。(ちなみに言っておくと、私の実家は田舎にあるが、その田舎にもスタバはある。ただ、地元のおしゃべりな人々の憩いの場という雰囲気で、作業しやすくないので私が好まないだけである。)

京都でも名古屋でもスタバはスタバなのがいいところだ。同じメニューに同じ味、同じ大学生らしいスタッフに同じ対応——。すべてが画一化されていて大資本の力も感じるが、社会批判に乗り出す前に、作業に乗り出すのが私である。僕はこの手の画一化されたスタバをよく利用するので、京都BALにあるような変化球系のスタバにはなかなか行かない。一度行った人ならお分かりの通り、あそこはごちゃごちゃとアートっぽい作品を置きまくっており、そのごちゃごちゃ感は楽しげでもあるのだが、作業には向かない。かつてそこで作業していたとき、目の前にある稲妻のオブジェクトが突如回転し始めた(ウィーン!)。たまげた。こりゃ作業には向かん。京都BAL店の西側の円卓には特に気をつけましょう。あ、とはいえ、どのスタバにもBGMがうるさいという難点はある。

今日は自分でもびっくりするくらい気分がよかったのだが、メイラックスを飲んでおらず眠気や怠さが控えめなおかげかもしれない。メイラックスはかつて頓服用に飲んでいて、今は常飲(調子よければスキップ可)なのだが、うまく付き合っていきたい。元気な時の目安がもう一つあった。お喋りになることだ。今日の日記は「うるさい」印象を自分でも受ける。

年の瀬年の瀬とうるさい。僕は仮に目標を立てるならば2月3月から考え始めて4月から本格的にやるたちなので、1月とかは特にどうでもいいという考えだ。とはいえ、今年面白かった映画とかは1月から数えたい。ちなみに、今年自分が観て面白かった映画は例えば以下(公開年は今年に限らない)。

NTLiveは機会があればなるべく観てきたのだが(例えば、ハムレットとかリア王とかフランケンシュタインとか)、『シラノ・ド・ベルジュラック』はぶっちぎりで面白かった。最近見た濱口竜介監督の短編集『偶然と想像』とかもよかったけど、いろいろ挙げようと思えばキリないからこの辺で。

 

2021/12/29(Wed.)

一日あいて、日記を書いている。実家は郊外にあるので車がなければどこへも行けず、この二日間は実家から一歩も出ずに過ごしていた。そのせいか、体もだるくなかなかしんどかったが、卒論のアイデアが浮かんでは消えてを繰り返していたので、少しずつ回復しつつあるのかもしれない。

卒論は加筆・修正・刈り込みを施した上でどこかに出したいのだが、そのときの落とし所も考えている。そんな未来のことを考える前に、目の前の卒論を書けと言われればそうなのだが。

実家では常にテレビがついていて(うちの家族は自分を除いてテレビっ子だ)、自分も高校生までは別に何も気にならなかったのだが、大学生になって下宿を始めてからはテレビはつけなくなった。せっかく買ってもらったにもかかわらず。テレビは音量的にもそれ以外の意味でもうるさいし、質の悪い番組は流しておいたら苦痛に感じるようになった。実家ではそこそこの音量で、しょうもない番組ばかりを流しているので、その点が割と辛い。

最近は、日本の分析美学界隈についても色々と考えるようになった。日本の分析美学をSNSなどで追っている人々には、この「界隈」という言葉に込められた微妙なニュアンスが伝わるかもしれないが、たしかに「界隈」としか言いようのない雰囲気が日本の分析美学界隈(の一部)にはあると思う。し、自分もそれに加担しつつあると思う(思い上がりに見えるかもしれないが、自分は一応とある分析美学の読書会を主催しているので、事実だろう)。それがいい意味であるか悪い意味であるかはとりあえず措いておくとして、研究のスタイルが多様であればいいなと願っている。何が言いたいのかいまいち伝わらないと思うし、自分でも書いてて迂遠だなと思ったので、もうあけすけに言ってしまうが、日本の分析美学者の書いたものを読んでワクワクした覚えはほとんどない。(ここで直ちにトマトを投げつけないでほしい。僕は分析美学の学術的価値を否定しているわけでは全くない。ただ、勉強にはなるけどワクワクしないな〜と思うだけである。)。これは僕の関心の偏りにもよるのだが、例えば山口尚さんや青山拓央さんが書いたものを読んだときに覚えるようなゾクゾク感が、日本の分析美学には感じられない。つまり、いわゆるJ哲学に相当するJ美学があってほしい、というだけのことだ。(厳密には、J美学はすでに伊藤亜紗さんがしていると言えるので、ここで言いたいのは分析J美学のこと)。

ダメ押しでもう少し書いておくが、分析哲学や分析美学のやり方として、いわゆるJ哲学のやり方が至高だとか書いているつもりはないし、実際書いていない。上の文章を読んで、ブンセキテツガク的なスタイルでもいいじゃないか、それを面白くないというのは徳がなっとらん!という人がもし仮にいるのならば、その人は研究者と研究分野を混同しているかもしれない。私が気にしているのは研究分野全体の多様性であって、特定の研究者個人が進める研究についてとやかく言うつもりはない。

 

2021/12/27(Mon.)

今日は台風一過的な体調で割と元気があったのだが、診察待ちと帰省によってそのエネルギーを使い果たしてしまった。元気な時の目安として、音楽を聴きたくなる、本を読みたくなる、物欲が出てくる。などがある。ちなみに、僕はTHEというブランドというブランドが好きで、ここのサイトを眺めるのはたいへん楽しい。

the-web.co.jp

OKAMOTO'SがYoung Japaneseという曲で「この世は巨大なsupermaket なんでもあるけどなんでもあるだけ」と歌っているが、まじでこの世には商品が多すぎる。スーパーマーケットの棚を眺めると、ただ胡麻ドレッシングが欲しいだけでも選択を迫られる。高級そうな胡麻ドレ、プライベートブランド胡麻ドレ、今日セールになっている胡麻ドレ、定評あるメーカーの胡麻ドレ……全くキリがない。こうした棚の前で訳が分からなくなり頭が停止したとき、自分はパッケージが最も優れた、つまり広い意味で美しいアイテムを選ぶようにしている。(哲学者が大好きなかのロバはここで餓死してしまうかもしれない。かわいそうに。)検討事項を一つ増やし、ただそれだけに従うということだ。どの検討事項を採用するかという高階の検討事項はどうやって決めるのかって?それは各自の実存で勝手に決めてください。

youtu.be

こうした選択疲れに対しては他の解決法もある。扱っている品物が少ない小さなスーパーに行くとか、あるいは先に挙げたTHEのような「これこそ〇〇の代表的アイテムですよ」と案内してくれるお店を利用するとかだ。ちなみに、THEは胡麻ドレを扱っていない。

診察について。症状に鑑みて薬を増量し、診察医の当直の変化や卒論提出時期に鑑みて普段の倍の期間の薬をもらったら、かなりお金がかかってしまった。クリスマスプレゼントとか誕生日プレゼントは自粛しておくべきかもしれない。

それから帰省した。名古屋駅を行き交う人々は京都駅を行き交う人々とは全然服装の雰囲気が異なる。そして実家にはやはり満足な椅子がないので満足に作業できなさそうな気配がしている。家事とかを減らせる点ではいいのだが。

 

2021/12/26(Sun.)

苦しい。予約をしてしまった散髪を済ませ、家に帰ってきたらバタンキューである。

今週の中盤くらいからよい周期に入ってくるはずなのだが、気分が優れず部屋から一歩も出られない日がときどきあった。気分がある程度よければ散歩に行ったりして気分を少し落ち着けることもできるのだが、元手となる気分がなければそれも許されない。

頭が少し冴えてきたので——とはいえ卒論を進められるほどには冴えていないので——青山拓央さんの『幸福はなぜ哲学の問題になるのか』をちらほら読んでいた。幸福になりたくて。

やはり定期的に読み返したくなるいい本で、特に第4章以降が素敵だと思う。第4章は、青山さん自身がその哲学のスタイルをどう身につけたかを開示しているとも言える。第5章「付録:小さな子どもたちに」は、文字通り「子供向け」の人生訓の章なのだが、本書の他の章での議論と直接繋がっている。だから、ここだけ独立に読めば単なる「子供向け」の人生訓に見えるとしても、本書を通読した大人にとっては安っぽい人生訓以上の響きがある。というか、第5章を実践できている大人も実はそんなに多くないのではないか。少なくとも現在とても不幸を感じている僕は、そこで描かれるあり方とは乖離していた。第6章の「共振」という話の落とし方には、青山さんの「大人な対応」がよく現れていると思う。(この「大人な対応」という表現に込められたニュアンスは、青山さんの他の著作や他のいわゆる分析哲学者の著作を読んでいる人になら、よく伝わると思う。)ところで、子供はしばしば大人な対応にズルさを感じて納得がいかないことがあるが、僕自身も青山さんの書き振りには大人すぎてちょっとズルくない?と言いたくなるようなときがある。もちろん、子供が大人の対応のズルさを身勝手に非難できるのは、大人というものが何かをわかっていないからでもあるのだが。

www.ohtabooks.com

ちなみに、サンタさんは卒論を運んできてくれなかった。どうやら自分でやるしかないようだ。

 

2021/12/23(Thu.)

最近は苦しいよ〜という内容の日記ばかりなので自分でもつまらなくなってきた。実際、うつになると日常の密度が異様に小さくなるので仕方がないだろう。昼ごろまで断続的に布団で眠り、昼過ぎに出てくるのはいつもの流れだ。卒論?進んでるわけがなかろうが。今週の後半くらいからよくなる周期に入ってくるはずなのだが、締め切りが迫っているせいもあるのかなかなかよくならない。焦りは禁物でのんびり治療していくのが一番なのだが、卒論は書かなければならないし、僕以外に卒論をかける人はいないので、どうしても焦りが出てくる。

家にいても横たわってじっとしていることしかできないし、ほんの少しだけ気が向いたので濱口竜介の短編集『偶然と想像』を観てきた。短編とは言えど比較的長めの3話からなるオムニバスで、どれも〈ありそでなさそで、でもやっぱりありそな(と思わせる)偶然事〉を扱っていた。どこにでもありそな出来事から、次第になさそな出来事が展開していくときには、恐ろしく不気味だったり笑えたりするものなのだが、そこでのなさその展開の中から再びありそが浮かび上がってくる——そしてこの再度浮かび上がってきたありそは、出発点のありそにはない深みをもっている。これは脚本や俳優らの演技が掘り下げたものだろう。この一段下のありそで語られるセリフには映画の魔法がかかっていて、独立に聞いたら安っぽさを感じさせるかもしれないが、下層のありその中では独特の説得力をもって響く。映像的にも素敵な箇所がいくつもあった(例えば第一話の最後や各話で時々挟まれる正面のカットなど)。

guzen-sozo.incline.life

映画を観ている間はまだ比較的平気だったのだが、映画館を出た後すぐ辛くなってきた。魔法が解けてしまったからだろう。こう書いてから、いや違うなと思った。魔法や夢から覚めたとき、帰るところはふつう現実だろうが、自分はもうずっと夢の中にいるみたいだ。

 

2021/12/22(Wed.)

苦しすぎて昼過ぎまで布団の中でくたばっていたのだが、意を決して動き出した。とりあえず卒論の表紙を買うことをミッションにして、大学に来たのだが、それを買った途端にエネルギーが完全に尽きてしまって、今度は図書館でくたばっていた。

その後、卒論を2段落だけ書いた。作業に没頭することでしばらく辛い気分から離れることができる(いわゆる作業療法というやつか)。卒論を無心で進めることや、ヨガをすること、この日記を書くことなどはそうした作業にあたるが、作業をすれば少し楽になる反面で、作業をするにも最低限の気分の安定が必要である。ちょうどこの地点でジレンマが生じる。

本当にダメなときは何をする気にもならないし、何もできない。最近の午前中から昼過ぎまでは常にこんな調子だ。ただ、今日みたいにそのジレンマを跳躍して作業に移れるタイミングもある。今のところ、その契機はただの僥倖であって、僕の与り知るところではない。

11月中旬の中間発表までは、まだ鞭を打って無理して進捗を生み出すことができた。今の自分からすると全く実感がないのだが、記録によれば僕は11月初めの1週間で2万字書いたことになっている。相当すごいな。誰だこいつは。

しかしそれから後は、全体的に調子が制止気味になって、活動量が大幅に落ちた。文章もまともに読めないし(過去の自分のメモを頼りにしてえっちらおっちら読むのが関の山である)、少し作業しただけでへとへとになってしまう。洗濯をしたり、お風呂に入ったり、ゴミを出したり、それだけでもうエネルギーが尽きてしまう。ひどい時はこの家事すらできない。何より研究に対する興味や関心や喜びが失われた。これが一番堪える。

一般に、十分な休息をとればこうした症状も良くなっていくのだろうが、僕は僕の生とべったりで生きているわけで、一般的に生きているわけではない。認知が歪みがちなことも相まって、この状態が以後ずっと続くのではないかと考えてしまって本当に恐ろしくなることがある。

 

2021/12/21(Tue.)

今のところ、たいてい日記は翌日の昼すぎに(起きてから大学に到着した頃に)書いている。つまり、12/20の日記は12/21の昼頃に、そして今日の日記は12/22の昼頃に書いていることになる。しかしこれはあくまで原則だ。俺の体調は原則通りにはいかないぜ?

12/21は気分が下の下の下で日記どころではなかったので、12/20の分は翌々日(12/22)に書いた。気分がひどく落ち込む日というのは、何もないのに勝手に涙が出てきて止まらなくなってしまう。いや自分で書いていて恥ずかしい話なのだが、まったくの別者になってしまったような心地さえするので、書いているその「自分」もよくわからない。以前楽しんでいた本や映画は目に入れるのも嫌だし、何をしてもつまらないし、世界の現実味が薄まる。実家で原液から作るカルピス以上に薄い。こんなに苦しい思いをしたことはない。

周期通りに行けば今週の後半あたりからよくなるはずなので、頓服を飲みつつひたすら耐えるしかないか。

 

2021/12/20(Mon.)

今日から卒論の作成様式のプリントや卒論の表紙を(物理で!)配布するとのことだったので、わざわざ参上してやってもらってきた。その後プリントをじっくり眺めたが、「簡易表紙」とやらなんやらが謎だったので、再度事務室に参上して色々尋ねた。そうして、どういうふうに体裁を整えればよいか、完全に把握した。

卒論の提出がちょうど一ヶ月後に迫ってきた。わーお。今日は気分がなかなか落ち込んでいたので卒論の肝心の中身はまったく進んでいないのだが、体裁は大事。てなわけで、今日のところはこれで勘弁してください。と神に祈って寝た。

 

2021/12/19(Sun.)

不調の波は規則正しく2週間周期でやってきて、日記も書かずヨガもせず(これでどちらの連続記録も途絶えた)ただひたすら横になっていた。そういうときだと実際よりも遥かに高く卒論のヤバさを見積もってしまうのでまずい。

不調時に飲む薬を飲んでみたのだが、そのせいかめちゃくちゃ眠くなった。薬を飲まずにひどく惨めな気分でただ横になっているか、それとも薬を飲んで惨めな気分を軽減して横になって寝ているか——今週の後半はそんな具合であった。

実家に帰省するのもいいが、車がなければどこへも行けないから閉塞感があるし、そうするととりあえず大学に行ってみて気分が良かったら作業進めてみる、みたいなムーブができなくなってしまう。あと、椅子がよくない。ゆったりとしたソファーか、申し訳程度の背もたれがある椅子しかない。

睡眠導入剤を1錠服用すると朝早くに目覚めてしまって寝足りない感じを覚え、2錠服用するとしっかり寝られることが検証された。もちろん医師の指示には従っていますよ。こういう風にコントロールできてしまうと、人体ってちょろいもんだなと思うと同時にちょろすぎて怖いなとも思う。まあ、ちょろいもんならこの不調も早くどうにかしたいのだけど。

まとめて書いてしまうが、12月17日(金)の演習が面白かった。文献がというよりも雑談が。いわば独りよがりな哲学について先生が色々と喋っていたのだが、その内容はここには書かないでおく。

 

2021/12/15(Wed.)

ガス点検の立ち合いとAmazonの荷物の受け取りをしただけでヘトヘトになった。

ガス屋さんは底抜けに明るい声で、逆に不気味なくらいだったのだが、住人の部屋に入って仕事をするような人はそのくらいホスピタリティがないといけないのかもしれない。コンロ周りやコンロそのものが綺麗なことを、京都随一のその明るい声でベタ褒めされた。綺麗に使っていただいてますね!と。当たり前だ。ここ最近はまったく使ってないのだから。

AmazonからはNothing ear(1)が届いた。決め手は見た目である。美しい佇まいに一目惚れしてしまった。実は、完全ワイヤレスイヤホンデビューである。マスクをつけるときにごちゃごちゃしないのがいいね。パッケージによると、完全ワイヤレスのことを英語ではtrue wirelessと言うらしい。「真の、本物のワイヤレス」。自分の研究的にも面白い表現である。当たり前のことだが、「不完全ワイヤレス」ないし「偽物のワイヤレス」は、再生機器との間にはワイヤがないが、左右のイヤホンの間にはワイヤがあるようなタイプのイヤホンを指している。

jp.nothing.tech

頭が常にぼんやりしていたので何もせず過ごした。気分の落ち込みはそれほどでもないが、逆に気分の盛り上がりもほとんどない。素敵なイヤホンを手に入れた割には。

 

2021/12/14(Tue.)

毎日少しずつでも日記を書いているとそれなりの分量が溜まるものだ。12月の昨日までの日記で累計約6000字を書いているらしい。卒論とかレポートも毎日少しずつ書くようにしたらもっとよいのだろう。しかし、卒論と日記とは文章の練度に差があるもの。卒論は日記と同じようにすらすら書けるというものではない。そうかといって、卒論をあまりにも拝めすぎると着手するのがどんどん億劫になる。一昨日書いたことを思い出せ。書かずに書く。だ。そして一度書かずに書いてしまったものをまた再度「上書き」すれば、負担は少ない。

日記はリニアに文字数が増えて(もし「完成」があるのならば)完成に近づいていくものだが、卒論の完成への道のりはリニアではない。論文の全部とは言わないが、少なくともその一部ははむしろ、海の底から全体像が一挙に浮かび上がってくるようなものだ。もちろん書き下ろしていく段階はリニアになるが、内容に関して決定的なのは、アウトラインの段階での全体像の浮かび上がりだろう。

最近は頭の靄が晴れる時間帯があるので、その間にも少しずつ考えているおかげか、だいたい全体像は浮かび上がってきたと思う。これを説得的な形でリニアに読まれる文章に流し込むのがまた一苦労なのだが。

今日は比較的早くから行動し、午前のうちに大学に来ることができた。こういったささやかな達成を寿いでいこう。午後からは頭がぼーっとしてきたので適当に過ごした。頭に靄がかかるとしても、気分がひどく落ち込まないだけまだマシである。

少し前に、卒論の表紙と様式についての連絡が来たのだが、どうやら20日から手渡しで配るらしい。令和ももはや4年目に突入しようとしているのに、まだこんなことをしているのか。PDFで配ってくれ。

 

2021/12/13(Mon.)

気分の落ち込みは中程度、体の凝りも中程度、頭の曇りも中程度、な一日であった。京大の保健診療所がどうなるかは最近の懸念事項の一つなのだが、ひとまず年度内は診療を続けてもらえるそうだ。その先は……医師も知らないらしい。

いずれの不調バロメータもそこそこの値を示していたため、何もしなかった。「何もできなかった」と考えると罪悪感が増長されるので、「何もしなかった」と考えるようにしている。同じ無為にも消極的無為と積極的無為がある。消極的無為は無為に追い込まれるようなもので——「何かする」をしない——、積極的無為は無為を選び取るようなもの——「何もしない」をする——だ。何言ってるかわかる? 僕もわからない。

シンプルだが質の良さを感じさせるような(洋服で例えるならばScyeのような)文章を書きたいのだが、日記ではそれとは程遠い文章を書いてしまっている。昨日の日記の「仕方なく(失礼)準備を始めた」みたいな、括弧内にツッコミを入れる表現は最悪だし、鼻につくこともあるので気をつけたい。「(おい)」とかも癪に障る。というか、リズムが良ければ逆にスパイスにもなるし、全然気にならないこともあるので、要はセンスの問題なのだろうか。(こういう留保も本当は書きたくないのだが)これは僕の個人的な趣味なので他の人がやっているのは別にどうだっていい。

いま思いついたけど、他の事物との比較なしに「やっぱシンプルが一番だよね!」ということを意味するのに「シンプルイズベスト」と言うのは、よくわからんことだ。「シンプルイズザベスト」という表現自体がシンプル至上主義の思想を台無しにしてしまってはいないか。つまり、遂行的矛盾に陥っているのではないか。本当にシンプルが一番なら「シンプルイズベスト」がシンプルでベストじゃないのか。

 

2021/12/12(Sun.)

昨日もそうだったのだが、具合が悪く昼あたりまで布団と一心同体になっていた。僕は布団を決して離さなかったし、布団も僕のことを決して離さなかった。とはいえ、約束の時——指導教員との面談と君島大空のライブ——は迫ってくるので、仕方なく(失礼)準備を始めた。

指導教員との面談はいつも通り、インスパイアされるものであった。その中で、「卒論を書こう!」と思うこと自体が負担になるから、メモを少しずつ書くようにしていつの間にか気づいたらできてる、となるといいよねという話が出た。これは『ライティングの哲学——書けない悩みのための執筆論』で千葉さんが「書かずに書く」と言っていたこと、それそのものだと思う。そう指導教員にも話した。

www.seikaisha.co.jp

そのあとは君島大空のライブ、「秋の独奏ツアー 汀の袖vol.3 遠征」に出かけた。本来京都は紫明会館での今日のライブがこのツアーの千秋楽だったそうだが、翌日に名古屋公演が急遽決まったので京都公演は前楽となった。君島さんは千秋楽のつもりでやりますと言っていたけれど。

これまで君島大空(独奏ないし合奏)のライブはオンラインで何度か視聴したことがあるだけで、君島大空本人も10月21日の泥砂に金のライブで観たことがあるだけだった。泥砂に金は僕の側のコンディションが最悪だったのもあって、あまり楽しめなかったのだけど、今日の夕方には僕のコンディションもそこそこで演奏に集中することができた。ライブとは別にそのこともよかった。ちなみに、整理番号が一桁でステージの目の前だった(そのせいか熱狂的?なファンが隣におりしかもその香水の匂いが辛かった)。

f:id:eudaimon-richo:20211213151534j:plain

近い

で、君島大空は相変わらずギターがうますぎて笑ってしまった。口と手が別々に動いているのだが、ギターには歌心があって、歌声にはギター心?があって、両者が君島大空の中の(あるいは君島大空という)一つの器官から渾然一体となって出てきているような印象さえ受ける。アレンジがかなり豊かで、即興的な部分もあるのだろうけど、リズムキープが確かなおかげでめちゃくちゃ聴きやすい。しまいには、ふとした咳払いさえリズムにピッタリ乗っていた。なんなんだいったい。

覚えている限りのセトリは以下。

01-光暈(halo)
02-向こう髪
03-傘の中の手
04-火傷に雨
05-19℃
06-星の降るひと
07-きさらぎ
08-世界はここで回るよ
09-遠視のコントラルト
10-花曇り
11-新曲?忘れた
12-銃口
13-光暈(halo)
(袖の扉が開かずそのままEc)
Ec-BABY BABY(銀杏BOYZ

 

2021/12/11(Sat.)

今日も2時間ほど卒論の作業をした。十分偉い。

今日の勤務を最後にしばらく労働をお休みすることにした。現在すでに人手不足気味であり、かつこれから繁忙期という中で申し訳ないのだが、自分が元気になることを第一にしたい。というか、元気でない状態で働くのはかなりしんどいし、結局治りが悪くなってしまうだろう。

大した出来事のない、のっぺりとした一日だった。しかし日記を書くとそうした一日にも楔が打ち込まれることになる。

 

2021/12/10(Fri.)

今日は週に一度の授業の日だったが、夕方あたりまで調子が悪く、文献を読んでも目が滑って内容が頭の中に染み込んでいかなかった。なぜなら頭にはすでに鉛が染み込んでいるからだ。文献の入ってくる余地はない。授業が終わってからは比較的楽になってきたので、一時間だけ卒論を進めた。脚注に気に入らない部分があったのでそれをちょこちょこ直しただけであるが。

たしか文学部には卒論に字数制限があるらしいが——専攻によってその制限は少しずつ異なるのかな——、総人にはない。余計なことを考える手間が省けるのでその点は良かった。しかし、両者ともに締切はある。当然のことだ。その点は良かったとも悪かったとも言い難い。ジレンマがあるからだ。

そういえば、今日でヨガを2週間毎日欠かさずやったことになる。我ながらすごいことだ。最近家に帰ってからは一切の作業をしなくなり、その分時間が余っているから続けられているのだと思う。これまでは帰宅してからやお風呂に入ってからの20-30分を運動に費やすのはどうも気が進まなかったのだが、意識的に休憩の時間を用意しておかないと僕みたいな人間はダメだろう。医者にも「ちゃんと休んでいますか? 休まないと疲労の負債がどんどん溜まっていってしまいますよ」と言われたし。

 

2021/12/09(Thu.)

今年の10月17日にこんなことを書いた。

夏の間には冬のあの感じを思い出せなくなってしまって、冬の間には夏のあの感じを思い出せなくなってしまうが、思い出す日というのがあって、今日はそれだった

この日はたしか最低気温が10度を切ったのだった。忘れていた冬の凍てつく様を想起させる日だった。それから月日がすぎ、最近はもはや夏のあの感じを思い出せなくなってきている。

今日は具合が良く、午前中の間に大学に着いた。それからも、絶望的な気分になることなく卒論を進められた。数時間だけの作業であったし、原稿の字数が増えるといった目に見える進捗はないが、それにしても「平気だったときってこんな雰囲気だったかな」と思い出せるくらいにはいい日だった。頭にかかっていた靄が薄れていたので、文献を読み直して理解することもできた。

もちろん全盛期には至っていないのだが、しかし今大事なのは、よかった頃と比較してあとどれだけの差があるかを気にするのではなく、どん底の時期からどれだけ回復しているのかを見定めることだ。

無理をしすぎてすぐエネルギーが枯渇してしまっては仕方がないので、夕方くらいで作業を切り上げてゆっくりと過ごした。

 

2021/12/08(Wed.)

今日は人に会わねばならない予定があったので昨日よりかは早く動き出すことができた。人と話している間はなんとか取り繕うことができる(というかそのときはまだ大丈夫だった)のだが、その後にどっときてしまった。気分の落ち込みがひどいときは、泣く直前の胸のつまった感じが永遠に続くような心地がするので、地獄である。

日記を始めてから、気分の落ち込みや体の不調について語る語彙が貧しいことに気がついた。かといって、語彙が豊かでもこの苦しみは伝えきることができないほどだ、とも思う。自分がこんな状態になる前にも大体どんな症状が出るのかは知ってはいたけれど、その頭での理解というか想像をぶっちぎってくるものがある。

 

2021/12/07(Tue.)

あまりにも苦しい一日だった。体が動かないことはないが、気分の落ち込みが最低レベルまできている。雨が降っていたせいかもしれない。

 

2021/12/06(Mon.)

最近は、0:00-0:30あたりに寝て、6:00頃に一度目が覚め(なんか寝足りないなー)、8:00頃に再度目が覚め(なんか辛いなー)、それから重い気分・体と共に昼頃まで布団で過ごすことが多い。午前中はなかなか気分がすぐれず、お昼を過ぎたあたりから少しずつ調子が出てくる。そんな具合である。お昼を過ぎても気分が落ち込んでいることもときどきある。

今日はお昼からの気分がいくらかマシだったので、卒論のファイルを開いて少しメモを取ってみたり、アウトラインを修正してみたりして過ごした。あまりガッと集中せず、ほんの数時間適当に作業しただけなのだが、これまでほとんど触れることさえできなかったことを考えれば、十分だと思う。頑張りすぎて明日以降のペースが崩れても困るので夜は何もせずのんびり過ごした。

 

2021/12/05(Sun.)

自転車の後輪がお逝きになったので、自転車屋さんに持っていってタイヤを交換してもらった。「いろんなところが交換時期きてますねー」と言われて、俺のことかな?と思ってしまったが、これも認知の歪みというか、悲観的な考えに浸りきってしまっていることの現れだろうか。そもそも俺の交換ってなんだ。どのパーツをどうやって交換するのか。自転車は各パーツを一気に取り替えることも、少しずつ取り替えることもできるのだが、私自身は連続的な変化の中で、つまり走りながらなんとかしていくしかない。

今日も2週間前と同じく不調であったが、そのことは昨日も書いた。2週間前からの改善も書いた。以前と異なる点をもう一つ挙げるとするならば、ヨガの習慣が途切れなかったことだろうか。2週間前の土日でおかしくなってからその翌週の木曜日まで一切の運動ができなくなってしまったのだが、今回の不調では11月26日から続いていたヨガの習慣を続けることができた——最悪の気分だったにもかかわらず。そして、ヨガをすることによって気分もいくらか落ち着いたように思われる。

 

2021/12/04(Sat.)

昨日から不調が続いている。2週間前もちょうど同じように不調だったので、隔週で週末あたりから週明けにかけて体調が悪くなるという周期になっているのかもしれない。しかし、2週間前の不調では体の重さが中心であったのに対して、今週の不調では気分の落ち込みが中心になっている。気が重いと体も重く感じるのであるが。

抑うつ状態ないしうつ病になると認知が歪むらしい。今週末の不調に際して「2週間前と同じ状態になってしまった。全然よくならない……」という考えがふとよぎったのだが、これはまさに認知の歪みかもしれない。少なくとも体は以前よりは軽いし——これは薬の副作用のせいだったかもしれず、薬の調整後は少しずつよくなっている気がする——、気分の落ち込み方との付き合い方も少し上手くなっている気がする。気分は落ち込むときは落ち込むのだが、落ち込んで何もできない状態の自分をあまり責めなくなった。全く責めないというわけではないのだが。

このように、自分のよい変化を記しておくことは非常に大切だ。悲観的な方向へと流れていきがちな認知を、自分が残した記録を頼りにしつつ修正する——少なくとも現在、この日記はこうした闘病(というと大袈裟かもしれないが)記録という目的をもっている。

 

2021/12/03(Fri.)

昨日はオフにしたので日記もオフにした。

今日は動き出せたのが昼だったせいもあるのか、あるいは卒論をやろうと気張りすぎていたせいなのか、何もする気が起こらず、それはもう惨めったらしい気分であった。12月に入ったからそろそろ卒論をやらなきゃな〜といういわゆる超自我が悪さをしている気がする。というか、卒論という文字を見るのすら嫌だ。

最近希死念慮がひどいので希死念慮についても記しておこう。以前、友人に「よくよく考えたら、死んだら何も残らないから生きている意味ってないんじゃないか」と尋ねたら、「普通そういう疑問は中学生くらいで卒業する」というような回答をもらった。それはそうだ。「よくよく考えたら」という部分がポイントで、普通の人はよくよくなど考えたりしないのだから。とはいえ、こうした人生の意味の問いに対する対処は、「解決による放棄」ではなく「放棄による解決」である。ここには欺瞞が——生きていく上では非常に有用な欺瞞なのだが——あるのではないか。私はどうしてもそう考えてしまう。

そして、この種の人生の意味の問いを放棄できないとき、すなわち欺瞞的な処理をせずにどうしても考えてしまうときには、解決が与えられない形で浮上する。だからどうしようもなく苦しいのだと思う。解決が与えられない中でなんとかやっていく方法の一つが信仰だろう。山口尚さんの『幸福と人生の意味の哲学——なぜ私たちは生きていかねばならないのか』は、この観点から書かれていると思う。非常に素敵な本なのだが、残念ながら今の私に本を読む元気はない。

www.transview.co.jp

 

2021/12/01(Wed.)

師走ざます。12月からまた卒論を頑張ろうかな〜と思っていたが、頭がぼんやりしていて入力を受けつけないので英語文献を読むのがかなりしんどい。ここ数週間はずっとこんな調子である。気分はそこまで酷くないが、思考ができない。『現代思想』の大森特集とかにあるあまり難しくなさそうな論考が関の山である。

明日はオフにすることが決定しているので、のんびり過ごそう。そうやって養った英気でもって金曜日から卒論が書ければいいな。というか来週中には第2章をなんとかしなければならない。第2章さえなんとかなれば卒論は出せると思うので。