京大首席(次席)卒という存在しないステータス、あるいは大学での学びについて

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京都大学〇〇学部 首席卒」あるいは「京都大学〇〇学部 次席卒」という存在しないステータスを自称する手合いはしょうもないので放っておけ──という話をする。

 

忙しい人のために内容をまとめると次。

  • 京都大学の学部に首席・次席卒業というステータスは存在せず、あるのはただ学部の正代表・副代表というステータスである。
  • 仮に真の首席・次席がいるとして、それは必ずしも学部の正代表・副代表と一致しない。
  • そもそも首席・次席というランクづけは、大学での学びのあり方に照らして不適切であって、それゆえ首席・次席を自称する人はしょうもない。

 

 

Not 首席・次席、but 正代表・副代表

私の知る限りでは、オフィシャルかつプロパーな意味での京都大学の首席・次席卒業者は存在しない。つまり、大学側からあなたが首席・次席ですよと伝えられるようなことはない。

ただしその代わりに、卒業式で学部代表として卒業証書を受け取る「正代表」と、学部ごとの授与式で学部代表として卒業証書を受け取る「副代表」は存在する。

すなわち、巷で「京都大学〇〇学部 首席・次席卒」というステータスが取り沙汰されるとき、おそらくそれは「京都大学〇〇学部 正代表・副代表」のことを指している。

ここまで私は知ったような口で正代表・副代表について語っているが、それは現に私が学部の副代表だったからである。もちろん、私の在籍していた学部とそのほかの学部で違いがある可能性は、そして私の代とそれ以外の代で違いがある可能性は、否めない。

 

正代表・副代表は、首席・次席なのか

特殊な条件下でない限り、正代表・副代表と首席・次席は異なる。私の在籍していた学部を例に挙げて説明しよう。

私のいた学部は当時5つの学系からなり、その5つの学系が持ち回りで正代表・副代表を選出していた。例えば、2018年の正代表はA学系から、副代表はB学系から。2019年の正代表はB学系から、副代表はC学系から……という具合である。私の学部の教員にも訊いてみたが、おそらくどの学部も、学部の下位分類が持ち回りで正代表・副代表を選んでいるそうだ。

ポイントは、正代表と副代表は、学部全体から直接選ばれるのではなく、より小さい区分(私の学部の場合は学系)から選ばれる、という点である。

もちろん、各学系の中から代表者を選出する過程では、成績が考慮される(それ以外にどんな指標を用いればいいのか?)。各学系の学生をGPA順に並べて、その一番上にいる人が代表になる、というわけだ。

まとめるとこうだ。正代表・副代表として選出された学生は実に成績優秀なのだが、あくまでその代表は学部よりも小さい区分で持ち回りで選出されているため、そこからそのまま学部全体の首席・次席を名乗ることには欺瞞がある。

具体的に説明するとわかりやすいかもしれない。たとえばxさんはA学系から正代表として選ばれ、yさんはB学系から副代表として選ばれたとする。その場合、xさんはA学系のなかで最もGPAが高く、yさんはB学系のなかで最もGPAが高い、ということになる。さて、ここでxさんをその学部の首席、yさんを次席と呼ぶことは適切だろうか? これが適切でないことくらい簡単にわかるだろう。yさんがxさんよりもGPAが高い可能性も、さらにはC学系のzさんがxさんとyさんよりもGPAが高い可能性もあるからだ。

このように、正代表・副代表と首席・次席は必ずしも一致しない。

確かに、特殊な条件下では、学部よりも小さい区分から選ばれた正代表・副代表と、学部全体の首席・次席は一致しうる。正代表で選ばれた人が学部全体で見て最も成績が優秀で、副代表で選ばれた人が学部全体で見て2番目に成績が優秀だという条件下では。だが、この条件が成立する見込みはそれほど高くない。すると正代表・副代表であることをもって首席・次席を自称するのは、ほぼ賭けに近い行為だろう。

 

首席・次席とか言うのみっともなくない?

ここで譲歩して、先の留保を外しておこう。すなわち、私の在籍した学部では正代表・副代表は学系から選んでいたが、そうでない学部もあるとしておこう。ある学部では、学部全体を成績順に並べて、そのトップを正代表、トップ2を副代表としているのだと。(あるいは先の特殊な条件が成立しているとしよう。)

その場合でも、正代表が首席を、副代表が次席を名乗ることは、率直に言ってみっともないと思う。私は、首席・次席を自称する人は「わかっていないな」と感じる。何がわかっていないのか? それは〈大学での学びとはどのようなものか〉である。

高校から大学に進学して私がまず知ったのは、これまで自分が学んできたことは、大学で行われている研究・学問と比べれば、ごく狭い(あるいは浅い)部分にすぎないということだった。高校で学んだはずの数学や古典などについても、大学で学ぶとさらに底知れない深さがあることがわかった。そして、聞いたこともないような〇〇学が無数に存在することもわかった。

大学での学びは、そうした幅と深さをもつ諸学問分野について、それら全てを統べる物差しはないという自覚とともに営まれるものだと思う。

高校までは、比較的みなが同じ授業を受け、同じ問題を解き、同じ模試を受験し、そして同じ入試を通過してきた(「比較的」とあるように、厳密に言えば文系と理系という大きな違いがあるうえに、文系・理系の中でも、どの科目を選択するかで違いがあるのだが)。ともかく、同じ物差しがあったのだ。その物差しの下で競い合っていれば十分だった。

大学に入ると、そうした共通の物差しはすっかりなくなる。あるのはカオスと、一概に言えないはずの成績評価を無理やり数値化したGPAだけだ。GPAの値をもとに首席・次席を名乗るのはある意味では難しい(だっていい成績を取らないといけないのだから)が、また別の意味では簡単なことである。実に、大学には物差しがないという事実から目を背ければいいだけだからだ。カオスに耐えることなく、GPAに組み伏せられればそれでお終いだからだ。

首席・次席を自称する人は、大学には物差しが複数あること、あるいは共通の物差しが存在しないことを学んでこなかったと自白する(学んでこなかったフリをしている)ようなものだ──私はこう思うのである。

とりわけ残念で、同時に可笑しいのは、首席・次席を自称する人は、高いGPAをとるほど熱心に大学の授業を受けたはずであるにもかかわらず、大学での学びのあり方を知らない(知らないフリをしている)ということだ。なかなか大層な皮肉だと思う。