卒業論文「「本物」の二つの意味」を提出した

卒論を書いた(要旨)

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春です🌸

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春です🦆

報告が遅くなりましたが(もう春です)、標記の通り卒論を提出しました。

題目は「「本物」の二つの意味——トリヴィアルな真正性と日常的な真正性」。
(伊藤迅亮. 2022. 「「本物」の二つの意味——トリヴィアルな真正性と日常的な真正性」. 京都大学総合人間学部卒業論文.)

要旨だけ読んでも意味がわからないと思うのですが(ダメ要旨)、一応引用しておきます。ダメな要旨でも、ないよりマシでしょう。

 私たちはふだん、絵画作品やブランド品、旅行先で食べる料理、絶滅危惧種の生物、他にも様々なものを「本物」と形容する。この「本物」という語が、トリヴィアルな真正性と日常的な真正性という二つの意味をもつこと——これが本稿の主題である。
 第1章ではまず、予備的考察として、「本物」という語の用法の区別を確認し、主題に据える真正性概念を素描する。本稿で扱うのは、行為ではなく対象についての、そして少なくともその対象を記述・分類する含意をもつ真正性である。そして、この真正性は、「本物のX」「真正のX」のように名詞を伴い(名詞欲求型)、同時に、本物のあり方を述べる機能よりも本物でないあり方を排除する機能の方が基礎的である(否定主導語)と特徴づけられる。本稿の主題はあくまで、第1章で指定したこの範囲の真正性には二つの意味があると指摘することである。
 第2章では、二つの意味のうち、基礎的でトリヴィアルな真正性とは何であるかを説明する。「本物の偽物」という逆説的だが理解可能な表現を足掛かりとして、基礎的な真正性を例化・メンバーシップ・時空的連続性の三つの観点からミニマルに定式化する。次に、この基礎的な真正性の三分類を、既存の真正性の分類と比較して、それよりも優れていることを示す。他方で、基礎的な真正性の定式化からトリヴィアルな真正性を、すなわち〈あらゆる個物が本物である〉という洞察を導く。たしかにトリヴィアルな真正性は日常的な直観から乖離しているけれども、「本物」のもう一つの意味である日常的な真正性と両立し、かつその意味を担保するものとしてトリヴィアルな真正性を擁護する。また、トリヴィアルな真正性の特徴を、一見類似している入不二基義の現実性と比較することで明確化する。
 第3章では、最低限の存在論的関係から定式化されたトリヴィアルな真正性から、いかにして具体的内容に富んだ日常的な真正性が構成されるのかを論ずる。日常的な真正性は、トリヴィアルな真正性に照らしてみれば、一部の個物が特別に本物だと呼ばれることと、その一部の本物に偽物が対置されることの二つの特徴をもつと指摘できる。すなわち、この二つを説明すると、トリヴィアルな真正性に認識論的内容が付加され、日常的な真正性の意味に到達するというわけだ。本稿では、試しに絵画に関わる真正性の説明の一端を示した。「本物」の二つの意味であるトリヴィアルな真正性と日常的な真正性のうち、後者の説明が不十分な点で、こうした第3章の考察は不十分であると考えられるかもしれない。しかし、様々な意味をもつために一見バラバラの概念の寄せ集めに見えかねない日常的な真正性について、その共通点を指摘するという意味でこの考察には意義があるだろう。

これを書く過程で大いに健康を損なったし、全体の仕上がりにはあまり満足していないのだが、所々でいい話をしていると思うし、これを読んだ人には割と肯定的に評価してもらっている。

 

卒論の行方、これからのこと

で、これをどうするのかという話ですが、基本的に卒論自体は公表しないつもりです(学部の学系事務室に行けば閲覧できますが)。ただし、卒論で扱ったテーマは、中心的な主張とそれをめぐる幾つかの問題群に分けられるので、それらを整理しながら個別に論文化していけたらと思っています。なので、この卒論の内容を知りたいという方がもし仮にいらっしゃいましたら、しばしお待ちください。

うまく事が運べば、美学会や哲学若手でお披露目できるかもしれません。健康第一で進めていきますので、どうぞよしなに。

追記。今年の春からは学部に引き続き、京都大学におります。人間・環境学研究科の共生人間学専攻で、その中でも哲学をやるところにおります(美学をやるところではない)。