追記|「個人的に」って言ってもいいよ

昨日の記事の追記。

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昨日、やたらと攻撃的なタイトル(「議論してるときに「個人的に」って言うな」)で、「個人的に」という表現について思うところを述べたが、まあ、特段間違ったことは言っていないのではないかと思う。が、三点ほど補足を。

第一に、私が主張したいのは、〈「個人的に」という言葉を使用する際に引き受けるべきコミットメントを引き受けろ〉ということであって、〈「個人的に」という言葉を一切使うな〉ということではではない。言葉には使うべき場所があり、使うべき場所でない場所で使えば、不適切になったり不正になったりする——ただそれだけのことである。

第二に、「議論してるときに」の「議論」がどこまでを指すのかは実際のところはっきりしていないし、はっきり書いてもいない。一口に議論と言っても、学会発表の質疑応答くらいフォーマルな議論であるか、読書会や指導教員との面談における幾分カジュアルな議論であるかによって、「個人的に」という言い方が有害になるか無害になるか(どれだけ有害・無害になるか)は変わってくるだろう。

第三に、私は議論の場で「個人的に」という言葉を使われても、その場で「で? あなたがそう思っているだけでしょ?」という応答はしないし、したこともない。安心してほしい。議論の場で私が目指していることは、議論が全体としてより良い方向に進展することであり、「で?」という応答は、その目的に全く貢献しない。つまり、「個人的に……」と表明された意見であっても、私は相手が何かをその意見に賭けていると見なして、その意見を吟味する。ただし、無意識のうちに、そして癖のように「個人的に……」と意見を述べる人に対しては、そのように自動的に、考えもなく、乱暴に言葉を使うことは、その言葉の本来の機能を発揮すべきときに発揮できなくなってしまうことがあるから、やめてほしい——そう思っているのである。*1

*1:2023/09/12(Tue.)の日記から転載

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議論してるときに「個人的に」って言うな

「個人的に……と思う」という表現(日和った表現、いわゆる「ヘッジ」の一つ)が大嫌いである。正確には、その表現自体には何の罪もないし、ヘッジすべきときにヘッジすればよいと思うのだが、ヘッジしつつもどことなく自らの意見を通そうとするようなズルい仕方で使用する人が嫌いである。

例えば、議論をする際(議論でなくてもその人の見解を打ち出す必要のあるあらゆる場面で)、「個人的には……と思うんですけど」と言われるのが堪らなく嫌だ。

議論以外の場であれば、嫌さを感じないこともある。——友人とレストランに行く。私は初めてそこに行くのだが、常連客の友人はメニューを知り尽くしている。友人が言う、「ここはA定食が一番人気だけど、個人的にはB定食がオススメだよ」。このように、議論をしておらず、その人のオススメを訊くようなシーンでは、その「個人的に」に問題はない。

友人はB定食を勧めるが、私は——B定食を退ける積極的な理由を持ち出すことなく、そしてまたA定食を選ぶ積極的な理由も持ち出すことなく——A定食を選択することができる。Bはそれに対して文句を言う権利がない。あくまでBのオススメは「個人的な」ものなのだから。「個人的な」と言われる当の考えはその人だけのものであり、他人からどうこう言われる筋合いのない領域に存するが、それと同時に、他人どうこう言う権利のない領域にも存するのだ。

すなわち、「個人的に……」と意見を述べることは、その意見を、他のどの意見からも影響を受けず、そして他のどの意見にも影響を与えない、独立した空間に位置づけることである。

他方で、議論の場で「個人的に」が用いられる場合は事情が異なってくる。「個人的に……」と自らの意見や解釈を述べる人は、おそらく、その意見や解釈の内容を吟味することなく破棄されることを認めないだろう。議論の場で、自らの意見が等閑に付され破棄されるのを眺める人は馬鹿であるし、そもそもそんなものは適切な議論の場ではない。私は、議論の場で「個人的に」と言われると、「なるほど、あなたはそう思うんですね。で? だから何? あなたがそう思ってるだけでしょ?」と応答したくなる。この私の応答を意地悪だと思うならば——実際かなり意地悪だろう——、自らが述べた意見や解釈が、他の意見に影響を与えうるものであることを認めていることになる。

私が議論の場で「個人的に」を使われることに抵抗を感じるのは、まさにこの点に存する。すなわち、議論の場で「個人的に」と述べる人は、他の意見から影響を排しつつも、まさに議論の場でそれを述べることによって、他の意見に影響を与えようとしているのである。

本来、「個人的に」という言葉は、自らの意見が、他の意見からの影響を受けず、そして他の意見への影響を持たないものであることを述べ立てるものである。「個人的に」と述べることによってその人は、自らの意見が、他の意見に影響を与えることと引き換えに、他の意見から影響を受けないようにする。あるいは、他の意見から影響を受けないようにすることと引き換えに、他の意見に影響を与えることを断念するのだ。これはまさしく「個人的に」という表現を用いる際に引き受けなければならない事柄である。

議論の場で「個人的に……」と意見を述べ、そしてその意見が等閑にされることを拒む人は、「個人的に」という言葉を用いる際に引き受けるべきコミットメントから免れながら、その言葉を用いて得られる利益を得ようとしているのだ。他の意見へ影響を与えようとすると共に、他の意見から影響を受けないようにしているのだ。

こう考えると、先の私の(ともすると意地悪な)応答——「なるほど、あなたはそう思うんですね。で? だから何? あなたがそう思ってるだけでしょ?」——は、見かけほど意地悪ではないのかもしれない。なぜならそれは、「個人的に」という言葉のコミットメントから逃れて利益を得ようとするフリーライダーに対して、引き受けるべきコミットメントを(再)提示する営みだからだ。*1

追記

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*1:2023/09/11(Mon.)の日記から転載

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diary|2023/09

2023/09/23(Sat.)|ナカガワ小麦店、カヴェルの翻訳

ナカガワ小麦店のパンが美味すぎる。私が一国の王だったら、毎朝宮殿に届けさせているだろう。

ぼちぼちカヴェルの翻訳を進めている。大体8分の1の下訳を整えたところだ。

 

2023/09/22(Fri.)|エレミアがよい

エレミアを買って正解だった。ここ数日は曇天ばかりなのでばっちり似合う。

 

2023/09/20(Wed.)|いい買い物をした

今日も曇り時々雨でやる気ゼロだったので、大学には行かず、繁華街に行った。スタバで適当に本を読み散らかしてから、Aēsopに行ってきた。どうやらもうすぐ価格改定があるみたいで、フレグランスも5%ほど値上げになるらしい。

それもあって、以前候補に挙げていたエレミアを買ってしまった(2023/09/10(Sun.)参照)。じめっとした日は調子が悪いことが多いので、これで気分を上げられればいいなと思う。店員さんによると、開店する際に店内や店先に香水を振りかけたりするのだが、今日みたいな天気の日はやっぱりエレミアだよねとなったそうだ。

www.aesop.com

今日接客してもらったのは10日の店員さんとは別の方だったのだが、10日に接客していただいた店員さんも挨拶してくださってお話できた(にしてもよく覚えてますね)。レジを待っている間も、店舗の建築・空間設計などをイソップブックなる図録を出して説明してくれたりと、ホスピタリティがひたすら高かった。いい物を買ったが、それ以上にいい買い物体験ができた。

ただ、ミントティーを出すのだけは勘弁してほしい。苦手なので。

柳馬場通にある京都店は陰翳礼讃をモチーフにしていて(京都のおしゃれな店はたいていそうだ)、天井にライトが一つもなく、ポイントの照明だけで賄っているそう。言われてみれば確かに暗い。

この謎の井戸からは水をちょろちょろ出していて、天井に水面の反射が映るようにしているらしい(店内が暗くてiPhoneではいい感じに撮れないが)。天気のいい日や昼間はこれが見えにくいし、京都店ならではの暗さが味わえないので、天気の悪い日や夕方以降に行くとよいでしょう。

 


2023/09/12(Tue.)|「個人的に」って言ってもいいよ

昨日、やたらと攻撃的なタイトル(「議論してるときに「個人的に」って言うな」)で、「個人的に」という表現について思うところを述べたが、まあ、特段間違ったことは言っていないのではないかと思う。が、三点ほど補足を。

第一に、私が主張したいのは、〈「個人的に」という言葉を使用する際に引き受けるべきコミットメントを引き受けろ〉ということであって、〈「個人的に」という言葉を一切使うな〉ということではではない。言葉には使うべき場所があり、使うべき場所でない場所で使えば、不適切になったり不正になったりする——ただそれだけのことである。

第二に、「議論してるときに」の「議論」がどこまでを指すのかは実際のところはっきりしていないし、はっきり書いてもいない。一口に議論と言っても、学会発表の質疑応答くらいフォーマルな議論であるか、読書会や指導教員との面談における幾分カジュアルな議論であるかによって、「個人的に」という言い方が有害になるか無害になるか(どれだけ有害・無害になるか)は変わってくるだろう。

第三に、私は議論の場で「個人的に」という言葉を使われても、その場で「で? あなたがそう思っているだけでしょ?」という応答はしないし、したこともない。安心してほしい。議論の場で私が目指していることは、議論が全体としてより良い方向に進展することであり、「で?」という応答は、その目的に全く貢献しない。つまり、「個人的に……」と表明された意見であっても、私は相手が何かをその意見に賭けていると見なして、その意見を吟味する。ただし、無意識のうちに、癖のように「個人的に……」と意見を述べる人に対しては、そのように自動的に、考えもなく、乱暴に言葉を使うことは、まさにその言葉の本来の機能を発揮すべきときに発揮できなくなってしまうことがあるから、やめてほしい——そう思うのである。

 


2023/09/11(Mon.)|議論してるときに「個人的に」って言うな

「個人的に……と思う」という表現(日和った表現、いわゆる「ヘッジ」の一つ)が大嫌いである。正確には、その表現自体には何の罪もないし、ヘッジすべきときにヘッジすればよいと思うのだが、ヘッジしつつもどことなく自らの意見を通そうとするようなズルい仕方で使用する人が嫌いである。

例えば、議論をする際(議論でなくてもその人の見解を打ち出す必要のあるあらゆる場面で)、「個人的には……と思うんですけど」と言われるのが堪らなく嫌だ。

議論以外の場であれば、嫌さを感じないこともある。——友人とレストランに行く。私は初めてそこに行くのだが、友人は常連で、メニューを知り尽くしている。友人が言う、「ここはA定食が一番人気だけど、個人的にはB定食がオススメだよ」。このように、議論をしておらず、その人のオススメを訊くようなシーンでは、その「個人的に」に問題はない。

友人はB定食を勧めるが、私は——B定食を退ける積極的な理由を持ち出すことなく——A定食を選択することができる。Bはそれに対して文句を言う権利がない。あくまでBのオススメは「個人的な」ものなのだから。「個人的な」と言われる当の考えはその人だけのものであり、他人からどうこう言われる筋合いのない領域に存するが、それと同時に、他人どうこう言う権利のない領域にも存するのだ。

すなわち、「個人的に……」と意見を述べることは、その意見を、他のどの意見からも影響を受けず、そして他のどの意見にも影響を与えない、独立した空間に位置づけることである。

他方で、議論の場で「個人的に」が用いられる場合は事情が異なってくる。「個人的に……」と自らの意見や解釈を述べる人は、おそらく、その意見や解釈の内容を吟味することなく破棄されることを認めないだろう。議論の場で、自らの意見が等閑に付され破棄されるのを眺める人は馬鹿であるし、そもそもそんなものは適切な議論の場ではない。私は、議論の場で「個人的に」と言われると、「なるほど、あなたはそう思うんですね。で? だから何? あなたがそう思ってるだけでしょ?」と応答したくなる。この私の応答を意地悪だと思うならば——実際かなり意地悪だろう——、自らが述べた意見や解釈が、他の意見に影響を与えうるものであることを認めていることになる。

私が議論の場で「個人的に」を使われることに抵抗を感じるのは、まさにこの点に存する。すなわち、議論の場で「個人的に」と述べる人は、他の意見から影響を排しつつも、まさに議論の場でそれを述べることによって、他の意見に影響を与えようとしているのである。

本来、「個人的に」という言葉は、自らの意見が、他の意見からの影響を受けず、そして他の意見への影響を持たないものであることを述べ立てるものである。「個人的に」と述べることによってその人は、自らの意見が、他の意見に影響を与えることと引き換えに、他の意見から影響を受けないようにする。あるいは、他の意見から影響を受けないようにすることと引き換えに、他の意見に影響を与えることを断念するのだ。これはまさしく「個人的に」という表現を用いる際に引き受けなければならない事柄である。

議論の場で「個人的に……」と意見を述べ、そしてその意見が等閑にされることを拒む人は、「個人的に」という言葉を用いる際に引き受けるべきコミットメントから免れながら、その言葉を用いて得られる利益を得ようとしているのだ。他の意見へ影響を与えようとすると共に、他の意見から影響を受けないようにしているのだ。

こう考えると、先の私の(ともすると意地悪な)応答——「なるほど、あなたはそう思うんですね。で? だから何? あなたがそう思ってるだけでしょ?」——は、見かけほど意地悪ではないのかもしれない。なぜならそれは、「個人的に」という言葉のコミットメントから逃れて利益を得ようとするフリーライダーに対して、引き受けるべきコミットメントを(再)提示する営みだからだ。

 


2023/09/10(Sun.)|香水レビュー(Aēsop、Buly)

今日は繁華街に行って、次に使う香水の品定めをしてきた。それぞれレビューをしよう。

次の候補(今日試してきたもの)は3つ。AēsopのOuranon、AesopのErémia、Officine Universelle BulyのLichen d’Ecosseだ。

Aēsop, Ouranon

An amber bottle of Ouranon Eau de Parfum

www.aesop.com

イソップはマラケシュ、ヒュイル、タシットあたりのクラシックラインが人気というか、よく言及されるものだと思うが、こちらはより構成が複雑な感じのアザートピアスライン。アザートピアスのシリーズはこれまで5つの香水が出ており、新作であるオラノンは6つ目のプロダクトにして、アザートピアス最終章らしい。

香りのタイプとしては、ウッディ・アーシー・スパイシー、という具合だろうか。公式の説明はこうなっている。

アザートピアスの物語の最終章は、物事の終焉への讃歌です。樹脂の滴るウッディな香り、鉱物を感じるアーシーな香り、そして閃光のようにまばゆいスパイスの香りが、新たな旅支度を整えるための故郷への帰還を示唆します。

確かに、トップノートはガツンとスパイシーが効いていて「ま、眩しい!!」とすら思える。香水で眩しいと思ったのは初めてかもしれない。草原や森のイメージというよりも、土っぽい荒野にちらほらハーブが生えているようなイメージだ。パチパチと音を立てて燃える焚き火っぽさもある。インスピレーション源の一つがモノリスだそうで、漂う荘厳さは最終章にふさわしい雰囲気だった。

ムエットはいつまで経っても漢方のようなツンとした匂いが残っていたのだが、肌に乗せた分は割と穏やかに香ってくれて、そこまで嫌な匂いはしなかった。時間が経って角が取れてきたくらいの匂いは好みではあるし、コンセプトも好きなのだが、トップの強烈さがさてどうだろうか。少なくとも一軍にはならないが、嗅ぐたびにクセになってくる香りな気もする。ギラギラした夏の日につけたい。

店員さんの感想が面白かった。曰く、楽しかった日の翌日につけたくなる香りだそうだ。終わりや儚さを感じさせる香りということなのかもしれない。

Aēsop, Erémia

Davide Quayola artwork depicting a forest

www.aesop.com

こちらもアザートピアス。アザートピアス3作目のエレミアは、オラノンとは打って変わって湿っぽい森のイメージだ。ウッディさは変わらずあるのだが、スパイシーさとアーシーさは鳴りを顰めて、代わりにグリーン感と翳りが前面に出ている。公式サイト曰く、

「荒廃の地」が想起するのは自然の聡明な力。大きな存在と小さな存在の間で絶えず会話が交わされます。そうした会話になじみのない人には聞き取れないほどの小さな声で会話が続きます。朽ちていくコンクリートに向けて動物たちが吠える声が反響し、ミツバチがまるで自分の考えを吐き出すかのようにブンブンとうなる。根っこから根っこまで静寂のメッセージが送られる情景が目の前に浮かんでくるかのようです。制御と開墾に抵抗するこの場所には、人間の圧力にけっして屈することのない自然の秩序が存在します。

トップノートにはユズ・ベルガモット・グレープフルーツが入っていて、爽やかな印象から始まるが、晴れてスカッとした爽やかさというよりも、どこか影があってひんやりとした爽やかさだ。ガルバナムの苦味のあるグリーン感が基調にあるからだろう。

雨に濡れたコンクリートの匂いでもあるらしい(ペトリコール大好き!)。この湿っぽさが、エレミアの翳りを演出しているのだろう。さっき「森」と言ったが、原生林のイメージは相応しくなく、むしろ日の当たらない暗い廃墟が森に飲み込まれ、廃墟の壁には蔦や根が張りめぐっているというイメージの方がぴったりくる。都会的な雰囲気もありながら、その都市を飲み込む自然の力強さも同時に感じる作。

曇り・雨の日にエレミアをつけたら、めちゃくちゃ雰囲気のある人になれる(なりたい)。

Officine Universelle Buly, Lichen d’Ecosse

オー・トリプル リケン・デコス

オー・トリプル リケン・デコスbuly1803.jp

アルコール・エタノール不使用の水性香水で名高いビュリーで気に入ったのは、リケン・デコス。ユズ・ドゥ・キソという香りもかなり好きなのだが、以前試してみたらあっという間にラストノートまでも消えてしまった。その分リケン・デコスはまだ持つほうだ。

水性香水だからか、香水を嗅いだときのキツさが全然なくて、たいへん優しい。ムエットや香水をつけた箇所をどれだけ鼻に近づけてもウエッとならないのが気に入っている。オラノンとエレミアがオードパルファムなのもあり、それに比べてだいぶすっきりとしてシンプルな香り方だ。頭が痛いとき、調子が悪いときにでも無理なくつけられる香水。寝香水としてもいいのでは。朝にはほとんど残っていないだろうから。

リケン・デコスの香りは、グリーンとミネラルから構成される。

秋の霧に覆われたスコットランドの谷間やグリム童話に登場するような樅と白樺の森の風景、シダとヒースが広がる赤い荒野に続く広大なエメラルドグリーンに点々とエニシダの黄色が散る平野….

ウッディなエッセンスのなかにケルトへの情熱を凝縮した唯一無二の香りリケン・デコスをまとうとき、思い起こすのは18世紀の国民的詩人ロバート・バーンズの詩『我が心はハイランドにあり、我何処へ行くも』(中村為治訳)

エレミアと同じくガルバナムが入っているのだが、湿っぽいガルバナムというより、瑞々しさのあるガルバナムという感じだ。リケン・デコスの舞台設定はスコットランドの渓谷の散歩ということで、エレミアと同じ苔の匂いもありつつ、雪解けの水が苔を濡らしていて、そこに日の光が差してキラキラきらめているような印象を受ける。後半は、爽やかさを残しつつも、徐々に温かみが出てくる。

冬の終わり、春の初めにつけるのがピッタリだが、夏の間もそのひんやりとして涼しげな質感はおしゃれだと思う。

晴れた日はビュリーのリケン・デコス、曇りや雨の日はイソップのエレミア——こういうガルバナム編成が一番よさそうだ。私が億万長者であれば財力に物を言わせて両方買っているはずなのだが、残念ながらそうではないので、そのどちらかを買うことになるだろう。悩ましい。

どっちがいいとかあったら(あるいはこんなのもいいぞというのがあったら)教えてくださいな。

 


2023/09/08(Fri.)|低気圧、眼鏡変えたのに気づいてもらう

低気圧のせいか、体が大変だるい。

眼鏡をguépardに変えて一週間くらいかけてきたのだが、誰にも気づいてもらえなくて、もう気づいてもらえる期間終わったな〜とクヨクヨしていたら、バイト先の人が気づいてくれた。嬉しい。僕も周りに眼鏡を変えた人がいたら真っ先に褒めてあげようと思う。

 


2023/09/07(Thu.)|オフ

今日もオフにした。昨日に続いていつもの喫茶店でランチ。叡電一乗寺まで行き、恵文社で物色。

帰ってきたらまだ時間があったし暇だったので、大学で図書館を3館ハシゴして、書店にも寄ってきた。夜ご飯はいつもの蕎麦屋

 


2023/09/06(Wed.)|オフ

今日は朝から出町座で映画を観てきた。カルチケという、25歳以下であれば受付に寄付された招待券を使って無料で映画を観ることができる制度を使った。観たのは『aftersun』。ちょうどいい作品だった。

帰ろうとしたらえらい土砂降りになってきたので、商店街のベンチでおじいさんとおばあさんと一緒に雨が止むのを待った。それからいつもの喫茶店でランチ。

内々定者の方たちとやりとりをしていて思ったのだが、今のところヘドニストにしか会っていない。みながみな(おそらく曇りなき眼で)「楽しみましょう!」というテンションなのである。ちょっとびっくりしている。

 

今日の素敵なもの|君島大空「c r a z y」


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2023/09/05(Tue.)|すこやかに過ごしたいのだが

すこやかに過ごしたいのだが、なかなかうまいこといかない毎日である。研究が思ったほど順調に進んでいないことも、この落ち込みの原因の一つだろう。進んではいるのだが。

と考えていたところ、8月に受験したTOEICの結果が帰ってきた。1週間勉強しただけの付け焼き刃の英語力だったのだが、ふだん論文を読んでいるおかげか、成績は全くもって悪くなかった。

世界は祝福で満たされ、私はすべてを赦した。

図書館裏に住まう猫、通称ボス。死んだように横たわっているが、これで通常運転

 


2023/09/02(Sat.)|いっちゃん嫌い

ノリとか、群れとか、世界で一番嫌い。

 


先々月のdiary|2023/07

2023/08のdiaryはお休みです。お休みでした。

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