筒井晴香(2021)「自分を美しく見せることの意味」のまとめ&コメント

授業で下記の文献を読んだ。

文献へのコメントがやや長くなった(冗長になった)し、気が向いたのでブログにも転載しておく。30分くらいでうりゃーっと一気呵成に書いたので、後で気になるところがあったら修正するかもしれない。

 

 

🥚文献の内容のまとめ🥚

全体的な論旨

タイトルに「自分を美しく見せることの意味」とあるが、この「意味」は「意義」や「価値」とも言える事柄であり、全体の論旨は〈自分を美しく着飾ることには確かに価値があるけど、容姿に関する差別や能力主義に陥るといった問題も含まれているから、手放しで礼賛することはできないね〉というものであった。

「おしゃれ」と能力主義

文献で俎上に上げられるのは(個々のアイテムやコーディネートではなく)ある人がおしゃれだと言われるケースであり、このおしゃれ判断は、身体を素材として生かして美しい容姿を作ることに対する評価である。ボディポジティブムーブメントはオルタナおしゃれ判断を生み出すものではあるけれど、依然として美の基準に固執しており、身体への評価を能力への評価へとシフトさせるという意味で、能力主義に陥りうるという点が指摘される。

「おしゃれイズム」はありうるか

おしゃれに基づくルッキズムは、他の身体的特徴や規範的な服装に基づく差別ほど全面的な悪さはない——悪いとされる文脈は局所的であったり曖昧であったりする。

我々はおしゃれをやめるべきか

前節の通り、おしゃれは差別的な処遇に繋がりうるが、他方で、その人らしさを表現する手段であり、セルフプレゼンテーションの能力を磨くことは自己実現において重要である。
文献の終盤では容姿の美の価値について、オープンな問いを三つ挙げている(これらについては後述)。

 

🐣文献についてのコメント(細かいものも含めて)🐣

pp. 191-92で筒井は、おしゃれをすることを身体を素材として活かして美的によい見た目をつくることだとしており、ボディポジティブムーブメントのモデルを例に挙げている。しかし、筒井論文は、元々の松永さんのおしゃれ判断の議論のうち、人を対象とするおしゃれ判断を念頭に置いており、松永論文によれば人を対象とするおしゃれ判断は行為や行為を行う能力が評価されている。すると、おしゃれなモデルが評価されているのはあくまでコーディネートや身体的特徴の活かし方であって、モデル自身の行為や能力が評価されているわけではないのではないか(そのとき評価されているのはスタイリストの能力、ということになる)。もちろん、ここで念頭に置かれているのがモデルの私服であれば話は別だが。

(細かいコメント)おしゃれに基づくルッキズムを「おしゃれイズム」と呼ぶのはキャッチーだが、同時にミスリーディングではないか。というのも、テレビ番組が想像されるかもしれないし、おしゃれ至上主義のような立場があればそれも「おしゃれイズム」と呼ばれるだろうから。実際、筒井も「おしゃれイズム」を使っているのは設題含めて2回ほどであるし、「おしゃれイズム」という用語の導入も疑問符を伴っており、そのように日和るくらいならこの用語はなくていいだろうと思った。

〈ボディポジティブのムーブメントやそのモデルもまたおしゃれである〉という論点に関して、おしゃれだとされている対象が何なのかが文献中で揺れていると思われる(私の前の前のコメントも参照)。例えばp. 195では「そのような言説〔ボディポジティブの言説〕の提示のされ方は、たいがいダサくはなく、おしゃれなのである」(p. 195)とあるが、ここでおしゃれだと判断されているのはもはや、明らかに人ではない(むしろ評価対象は雑誌やメディアだろう)。つまり、ボディポジティブに関わるおしゃれ判断にはさまざまな適用対象があり、筒井文献はそれらをざっくりひとまとめに論じているのではないか、ということ。例えば、自分では自分をいい感じに着飾ることのできない人が雑誌編集で巧みな能力を発揮するということはありうる。この例を踏まえれば、筒井は「あたかも、おしゃれでなければ大手を振ってルッキズム反対とは言えないかのようである。ここには果たして欺瞞はないのか、と考えたことのある人もいるのではないのだろうか」と述べているが、それに対する応答は「欺瞞はないでしょ(何においておしゃれなのかが異なるので、おしゃれに関わる一貫性がないという批判は当たらない)」というものになる。

  • 実践的には、雑誌などのおしゃれさとそれを読む人の装いのおしゃれさは相関関係にあると思う。そして、ボディポジティブがおしゃれな雑誌で、あるいはおしゃれな仕方で伝達されるのは、すでにある仕方でおしゃれな人に対してオルタナティブなおしゃれのあり方を提示するという意味で、プラグマティックには有意義なことだろうと思う。どんな仕方であれおしゃれでない人や、そもそもおしゃれを目指していない(興味のない)人にボディポジティブのムーブメントを示しても、「だから何?」となるだろうし。

文献の最後では三つの問いがオープンな形で残されている。①「セルフプレゼンテーションの価値が現在高いことは現代のメディア環境に依るのではないか」、②「おしゃれをすること、おしゃれに惹かれることは、消費文化に依るのではないか」、③「非身体的・脱身体的な美を追求することで自己実現をすることも可能なのではないか」、の三つ。

どれも十分な解答を与えることが簡単には済まない問題であることには同意するが、少し私も敷衍したい。①と②については確かにその通りであるとして、とはいえ現代とは異なる文化や環境においても、自己実現をすることの重要性は、もっといえばおしゃれをすることで自己実現をすることの重要性は一定程度はあるのではないかと思う。(そしてこの態度は、反おしゃれ主義(ないし「おしゃれイズム」)と相容れない態度である。)

③もそれ自体としてはうなづける論点だが、非身体的・脱身体的な美の追求もまた能力主義に陥るはずである。インテリアにこだわったり、身体を一切顧慮しないおしゃれをしたりすることは、確かにこれまでの人間的なおしゃれから離れた形での自己実現を可能にするだろう。しかし、それはあくまで脱身体的な能力主義の一形態であり、そして能力主義が人を疎外するものなのであれば、③を採っても疎外からは逃れられないということになる。

 

🐓文献とは関係ないコメント🐓

文献には直接関係しないのですが、おしゃれ実践に関して自分でも気になっている直観があるので、ついでにコメントしてしまいます。以下のような事例(思考実験)を考えてみます。

ランダムさんはおしゃれ好きで、ものすごく多くのそしてバラエティに富んだ服をもっています。そして、毎日異なるスタイルの洋服でおしゃれを楽しんでいます。一昨日はストリート、昨日はモード、今日はプレッピー、明日は……。

そしてもう一人、おしゃれ好きのインテグラルさんがいます。インテグラルさんも確かにおしゃれではあるのですが、ランダムさんと違って服は似たような種類のものをいくつも持っています(例えばノームコアだとしましょう)。毎日似たような白Tと黒パンで、明日の服装を予想するのは実に簡単です。インテグラルさんも、毎日お気に入りの服でおしゃれを楽しんでいます。

このような事例を考えると、ランダムさんとインテグラルさんもどちらも違った意味でおしゃれではあると言えるのですが、ランダムさんにはおしゃれにとって重要な何かが欠けているのではないか、と私は思っています。それはおそらく、「美的に一貫した個性」とでも呼ぶべきものなのでしょうが、そもそもこの直観を他の人は持っているのか、持っているとしてランダムさんには何が欠けているのか、といったことをファッションに関わる疑問として考えています。