diary|2022/06

2022/06/30(Thu.)——頭もんわり。「閾値を超えると変化する」って意味わからん

ずーーーっと頭がもんわりしていた一日だった。作業もあまり捗らないが、少しずつスライドを作っている。スライドはNotionとは違って、一枚一枚の断絶があり、その一枚に収められる情報量はたかが知れているので、頭の中が整理されていく印象がある。大学カードを使って論旨をまとめるときに似ている。パワポのスライドも大学カードも似たような形だ。

夜は久しぶりに木曜サロンに出向いた。最近面白かった本やイベント、映画、おすすめのアーティストなど、紹介しまくった。心地よい疲れ。

大学生になったくらいの頃からずっと、「閾値を超えると変化する」みたいな表現の意味がわからない。閾値とはそもそも判定なり量なりが変わる境となる値のことを指すと思うのだが、それはつまり、「変化」から「閾値」の意味が決定されているということだ。比喩的にいえば、閾値の中にすでに変化が入っているということ。だから、「閾値を超えると変化する」という表現は単なるトートロジーで「頭痛が痛い」ようなものだと思う。

と、ここまで書いて気づいたのだが、よく考えてみると「閾値を超えると…」の方は「閾値」と「変化」の間に成り立つ文法的——ウィトゲンシュタインをイメージしている——な関係を表したもので、「頭痛が痛い」の場合は、そうではないという点で違いがあるかも知れない。「水が沸点を超えて沸騰する」というのも——まあ意味わからないが——前者の閾値の方の問題に似ている。てか、沸点はそもそも閾値の一つか。

中央にザリガニみたいな雲が見える

 

2022/06/29(Wed.)——gokigenでgokigen

最近chelmicoの最新アルバム「gokigen」を聴いてgokigenになっている。歌詞も「Mianmi Tanaka」(田中みな実)とか「ちいかわ」とか、今っぽくクスッとなるワードが織り込まれている。Meidaimaeの展開めちゃくちゃかっこいいなと思ったらtofubeatsだった。MeidaimaeはMVも頭おかしくていい。

youtu.be

アルバイトで獅子奮迅の活躍をして図書館職員になったらどうかと勧められた。なれるものならむしろなりたい。司書資格は持っていないから、なるとしたら大学職員として図書館の配属になるとかだろうか。

就活関連の活動かも色々やらないといけないが、学会発表の準備が忙しくて、なかなかリソースを避けていない。

昼の空(夏の濃青の空)

研究室からの昼の空(トイ・ストーリーみたいな空)

夕の空


2022/06/28(Tue.)

今日も元気だ!という一日だった。元気な時はつい寝る直前まで作業をしたりしてしまうのだが、そういうのはやめたほうがいい。

 

2022/06/27(Mon.)——BASE BREAD、想像の3倍はまずかった

久しぶりに日記を書く。この間、元気がなくて何もやる気が起きなかったり、逆に元気があって日記なんか書いている場合ではなかったりした。

今日はベッドが搬入されたのだが、そのために頑張って平気な人間のフリをして部屋を掃除したのだが、そのおかげか本当に平気な人間になってしまった。

BASE FOODが気になっていたのだが、めんどくさくて買わずにずっと放置していた。そして先日、セブンイレブンにBASE BREADが一個ずつで売っていたので、試しに買ってみた。チョコ味のパン。

で、これが想像の3倍はまずかった。口コミとか宣伝でも「おいしい」とか散々言われていたので、普段のパンをこれに変えようかなくらいのノリでいたのだが、このまずさなら不健康なこれまでの食事のままで結構!そんな気分になった。何物でもない健康食品ならあの味でもいいかもしれないが、パンと謳っているがためにまずさが際立っているのかもしれない。クッキーとかならまだいけるのかな。

shop.basefood.co.jp

 

2022/06/15(Wed.)

特に何もない平和な一日だった。慣れてきたバイトに行って、発表の準備をして、どのベッドに買い換えるのか考えて、寝た。

 

2022/06/14(Tue.)——大森荘蔵『新視覚新論』

最近は授業のために大森荘蔵の『新視覚新論』を読んでいるのだが、六章「過去透視と脳透視」が面白い。

bookclub.kodansha.co.jp

五章の議論——視覚風景には空間的透視構造があること——に引き続いて、光行差についての解釈を元に、視覚風景には時間的透視構造もまたあることが指摘される。

高校で地学を学んでいた頃、光行差という現象がなんとなく腑に落ちなかった(とはいえテストで正解を選ぶ程度の理解はしていた)のだが、それがクリアーに説明されていたので、いたく感動してしまった。エモい、というやつだ。

ひょんなことから漢字研究をしようと志して総人に入学して、さらに思想系もウロウロしていたらいつの間にか哲学を学んでしまっていたのだが、これらのいわゆる人文学の専門を選んでなかったら地球科学者になりたいと思っていた。今でも地球科学に関するものを見聞きしたりするとウキウキする。

 

2022/06/13(Mon.)——エアコン掃除、ベッド破損、『リーマン・トリロジー

業者を呼んでエアコンを掃除してもらったのだが、エアコン以外の色々が壊れた。水浸しになったタイルマットをいくつか捨て、ベッドの床板が折れたのでこちらも買い換える羽目になった。ベッドフレームはもう10年以上使っているものだったので、ちょっと残念である。次のベッドフレームに何を買うのかという考慮事項がすでに面倒だ。何がいいですかね。

気を取り直して『リーマン・トリロジー』を観に行った。ベリベリグッド。

www.ntlive.jp

 

2022/06/12(Sun.)——コーヒーハウスマキ、授業、じじ読

「コーヒーハウス マキ」はホットドッグも美味しい

軒先に巣

今日中に試聴しなければならないオンデマンド授業の動画があったので、今日はそれを片付けた。合計で5時間ほどの長さだったのだが、2倍速でちゃっちゃか見た。

じじ読は第6回を数え、第二章第5節まで読み進めた。いい調子。

 

2022/06/11(Sat.)——レポート

昨日の打ち上げにうっかり参加してしまったせいで、レポートが進んでいなかったのだが、本日23:55に4-6ページのレポートを提出しなければならなかった。情報リテラシーの学習計画について論じるレポート。

すでに完成しているのは3割ほどだったのだが、なんとか間に合わせた。結局6ページにちょうど収まる量になった。久しぶりに朝から夜までがっつり作業をすることになった。こうした強制力がないとなかなか一日中体を動かすなんてことはできない。

 

2022/06/10(Fri.)——「これこれ、これが食べたかったんだよ」、銭さんへのリプライ

06/15(Wed.)にまとめて日記を書いているので間違っているかもしれないが、今日はバイトの後に銭さんの応哲(あるいは哲学オンラインセミナー意図WS)発表の打ち上げにちょっと顔を出した。想定していたよりもしゃべってしまった。

せっかくなので、その中で銭さんにお伝えした論点を少し敷衍してみよう。銭さんにとっては、意図WSで村山さんが中心的に扱っていた「創造行為における意図」の問題は、昼食選択の時に頻繁に起こるらしいが、それについて。(銭さんの見解については銭さんの2022/06/06の日記を参照)

www.senkiyohiro.com

たしかに「これだ!」と言えるためには、実際に見てみなければならない(食べなければならない)という点では、銭さんの昼食選択と創作行為は類比的である。とはいえ、創作行為における「これだ!」に対して向けられるのと同様の懸念が、より強固な形で昼食選択には向けられる。すなわち、昼食に近所のスパイスカレーを食べてみて「これこれ、これが食べたかったんだよ」と確信するとき、それはそのスパイスカレーを食べることを意図していたのではなく、単にそれに満足しているに過ぎないのではないかという懸念が、である。

森さんはそれに対する反例として(ここら辺はあまり覚えていない)、『孤独のグルメ』の井之頭五郎のセリフ「これこれ……」を示していたが、それは銭さんの場合と全く同じく〈ただの満足では?〉という疑問がある。ただ井之頭は饒舌なだけであって、「それ」を食べようと意図していたとは言い難いのではないか。

創作行為と昼食選択にこのようなディスアナロジーがあるのは、おそらく、どちらも選択——「それ」を完成、満足の地点とするという選択——はしているとしても、選択の元手となる候補を自ら作っているか否かにおいて異なるからである。つまり、創作行為では「それ」になりうる候補を他ならぬ自分が立ち上げるのだが、昼食選択ではそうした候補はコンビニなり料理人なりが用意するのであって、銭さんが用意するわけではないからだ。もちろん、この説明にはまだまだ埋めるべき余地があるが、それはこの意図の問題に特有のトピックではないと思う。その余地とは次のようなものである——この候補を自分で用意するとは、一体どのようなことなのか、どのような要件を満たせばその候補を自分で用意したことになり、自分で用意した候補ならばどのような要件を満たしているのか。

どの行為選択の候補が自分が用意したものなのか——この線引きは曖昧だが、とはいえ、創作行為と(銭さんの言う)昼食選択の間にある事例(そしてまさしく「それ」を意図していたのだと言い張れそうな事例)は提示できる。簡単なことで、創作行為でも昼食選択でもあるような行為を示してやればいい。例えば、銭さんが毎度昼食選びに難儀している創造的な料理人だとしよう。そして、毎度試行錯誤しながら自分が本当に食べたい昼食を作る料理人だとしよう。この場合、スーパー料理人の銭さんがついに「これだ!」と言える昼食に辿り着いたとき、単なる満足を超えて「それ」を意図していたと言えるのではないか。

 

2022/06/09(Thu.)——イヤイヤ期? あるいは、街中で泣く子供

今日は久しぶりにしっかり晴れたので2限の授業に赴くことができた。明日あたりからまた曇りになるらしい。梅雨は嫌いだ。レポートやらも溜まっていてなかなか疲れが取れない。頭は相変わらず痛い。昨日の寝る前とか、信じられないほどの痛みだった。人生なんてロキソニン任せである。

この歳になってイヤイヤ期が再来している感がある。お腹が空いたり、痛みがあったり、気分が悪かったりしたら、大人はそれ相応の対応を取ることができるのだろうが、最近はうまく対処できないことが多い。ただ不快感があり、その感覚を不快だな〜と思うだけで、じゃあ飯食えやとか——他人に、あるいは超自我に——言われてもイヤ!なんもしたくない!みたいになってしまう。(ガキである。)自分でも不快だと思っているし、何か対策をとれば楽になるとわかっているにもかかわらず。

街中で小さい子供が泣き喚いていたりするのが苦手だ。例えばスーパーでお菓子を買ってもらえない子供が駄々をこねているシーンなど。その手の子供がうざったいというわけでは決してなくて、僕まで悲しくなってくるから苦手、ということ。お菓子なんて、大人になったらある程度我慢もできるし、欲求を省みることもできるし、何なら大盤振舞して好きなだけ買えるのだが、小さな子供にはこれらが悉く許されていないように思える。その子供自身もどうしたらいいか分からずえんえんと泣いているのかもしれない。あるいは、どうしたらいいのか分からないからこそ、あれだけ激しく泣けるのかもしれない。それって大分ひどい悲しみじゃないか(その悲しみの得体が知れないのだから)、こう思うわけだ。だから、街中で子供が泣いていると、その子供が置かれた訳のわからん状況を想像して僕まで悲しくなってきてしまう。

夏の雲だ

 

2022/06/08(Wed.)——美的快楽主義

今日も体を起こすのが大分しんどかったのだが、頑張ってバイトに来た。勤務中も頭が霧で包まれたようにぼーっとして、かつ万力でキリキリやられているような鈍い痛みもあった。気分悪い期真っ只中である。

快楽主義についてなんか少し盛り上がっている。メモ。

aizilo.hatenablog.com

obakeweb.hatenablog.com

 

2022/06/07(Tue.)——元気なし

先週末あたりから寝たきりである。

 

2022/06/01(Wed.)——6月は忙しくなりそう

6月は大分忙しくなりそうなので、既にブルーになっている。研究関連のお仕事がいくつかあったり、集中講義として入ってくる授業が6月に集中していたり。そんな具合で忙しい。

今日はアルバイトに行ったのだが(多分勤務4回目)、慣れてきた。もちろん、前の職場と業務的にはほとんど同じなのだが、細かいシステムの違いに体が慣れてきた、ということだ。

特に低気圧がどうというわけでもないのだが、特に午前中はぐったりして動けないケースが多い。最近あまり眠れずに、朝早いうちに目が覚めてしまうこと(そして熟眠感がないこと)が問題なのかもしれない。